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works4Life

飯と酒と時々GTD

終わりを決めることは、それに対する可能性を断絶すること

ものを増やすことよりもものを減らすことの方がよっぽど難しいものだ。

減らすということは、ある何かに対して終わりを決めるようなもの。この終わりを決める行為は、ときには心苦しい気持ちになることもある。

単に終わりを決めるだけなのに、たったそれだけの行為が心にナイフを突き刺すのだろうか。

最近、ふと思ったのは、終わりを決めることは、可能性を放棄するということだった。

二者のうち、ある一方が明らかになる、あのシュレーディンガーの猫の感覚と、終わりを決めることは同じなんじゃないかなと思ったわけだ。

確かに言われてみればそうだ。終わりを決めるのは、存続もしくは死亡の二者択一の状況と全くもって同じである。

終わりを決めると、もしかするとその向こうにある自分にとってよい未来の芽を摘み取るのだ。しかも自分自身で。しかしその行為は実行するには難く、本当にそれでいいのかしらと思ってしまって、終わりを決めるのを後回しにする。

後回しにしたモノには可能性が存在している。少なくとも二つ。

最近思うことは、デジタルで保管できる量が増えたところで、私の脳自体が取り扱える項目数には限度があることだ。特に私は単位時間当たりの把握できる量は少ないし、私が制御している配下において、整然とされていないのは我慢ができない。整然としていないなら、自分が選んだ意味がなくなるからだ、と思う。

わかっていることは、私がモノをモノとして把握しているというだけで、エネルギーが消費されていること。でも私は、あまりにモノが多い状態は苦手なこと。

ツイッターが苦手なのは、ずっと言葉がモノとして浮遊して消えないこと。