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飯と酒と時々GTD

「私」について

人間が分子のかたまりならば、それらが皮袋に入っているその一点において、思考など統一されるべくもない。

確かに私は考えている一部ではあるが、他の何か私の体の中で蠢いているのも確かである。「私」という家の中で住人が複数人いるという家庭ならば、その感覚はなじむものだろう。しかし、こうも思う。仮に思考の粒があったとして、そのいくつかを束ねたものを思考とし、言葉のストリームとして発露するならば、今の「私」というものはほんの数秒しか存在しないだろう。「私」が「私」として連続的に意識が存在するには、記憶のつまった身体に繋がっていることが、どうにも必須のように思われる。

ところで、二重人格や多重人格ではどうして自分の知らない言語でもあやつれるのかと不思議だと友人に話したところ、友人からこんな回答がかえってきた。

「だって、それが当たり前だから」

記憶が意図して経路を分断された時、その限られた空間の中で思考をまとめるために、無理やりにも作成される人格なのかもしれない。しかし、言語・技能がそれに慣れていないにしても使用できるのかがあまりに不可思議である。火事場の馬鹿力と同じで、それが常時働いているようなものだろうか。その時の脳の活性化部分は異なるのだろうか。