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works4Life

飯と酒と時々GTD

観察者であろう

Being and Nothingness Creative Commons License photo credit: Photo Extremist

1st: 会社の研修

観察者であろう。

最初、このスタンスを考えついたのは会社の研修だった。会社の研修で、シニアに向けて、自分たちの回りからの評価を見直して、見える見えない部分を見直そうというものだった。

この研修がまた、気分的には最悪なんである。何せまわりの人間から自分はこんな風に思われている、ということをつきつけられる。その内容を1泊2日の間こんこんと考えつくすのだからキツい。

それでも研修自体はシニア向けだから終始進みはよい。昔ジュニア向けの同じ研修を受けたが確かにあれはひどかった。話の進め方もそうだし、意見の受けとり方についてもしっちゃかめっちゃかだった。

しかしシニアの研修は進みはいいが、ジュニア以上にどん底に落とされる。1泊2日のしんどい研修が終わった後に、具体的な評価された人のコメントを返される。いい面と悪い面とが書いてあるが、この時は悪い面ばかりに目がいってショックを受ける。しかも図星だけに尚更たちが悪い。いい面に対するコメントも同じ数だけあるのに、いい面が吹けば飛ぶよな印象に変わるのだから恐ろしかった。

かくいう私もひどくショックを受けた。私はとてもじゃないが耐えきれないので、すぐに見直すことをやめた。講師によれば、そこから目を離さずにずっと見続ける人もいるらしい。

で、次に思ったのはもう会社をやめようと思ったことだった。悪い面があることは重々承知しているので、欠点を言われても人間不信には陥らなかった。のだが、会社に居てはならないのでは、という不安感には陥った。正直ぼろぼろ泣いた。

そして、観察者であろうと思った。

2nd: 感情を捉える

私は記事でも何度か書いていることだが、自分のことがよくわからないことがある。それを具体的な行動で言うと、自分の感情を言葉で表すことがすぐにできない比率が高い、ということだ。

その私がこのようなショックを受けているのだという。いろいろ考えた。はっきりした感情だった。そして感情がめまぐるしく動いた。

なぜ自分がこんな感情に振り回されなくてはならないのか。なぜこんなにもショックを受けているのか。どうしてそこで会社をやめようという考えに行き着くのか。そこでどうして自分が指摘された点をなおそうという反応にならないのか。というか自分はなんでこんなにもいろいろ考えるのだ。というかこんなどん底の経験は数少ない。そのときにはどんな風に考えるのか。

そこで思考はふと、私は私の観察者であろう、いう言葉に思いあたった。

それが最初の言葉の発露だ。私が私の内で言葉にしてから私の外に出ていくまでには、もう少し時間を要する。なぜなら、まだひとたびしか言われていない言葉なので、何の行動にもひもづけられていないからだ。

確かに、私は「自分を理解するのに人と話すより何倍も必要である」というグレン・グールドの言葉をポラリスに携えて、人がそうするより自分の解析を自主的に行ってきた。しかし、だからといって自分自身を観察しよう、という視点は持ち合わせていなかった。

まだ、上記の時点では私は私の内部から見ていることを想定しているが、観察する、という言葉は完全に内部の時点で流れを分断することに他ならず、そしてそれをよしとするのである。

谷亮子は試合の時には自分には4つのカメラがあると聞いたことがある。カメラは、自分が作り上げる心のカメラだ。私の観察者という立場は、谷亮子のカメラと同様のものを作り上げる、といったものになるだろう。とにかく、今までの考え方と、観察者であろう、という考え方は大いに異なるものだ、ということだけは理解できた。

思いついてはしばらく忘れていたのだが、その言葉を実践する時期に恵まれたというか、遭遇してしまった。

現在私は忙しい。年末あたりからその嵐の波はやってきていが、ここ最近になって大嵐となった。12月から1月にかけて、私はおおよそ二つの種類の硬直状態を体感した。

via 仕事や私事に追い詰められて陥る、硬直した状態について

この記事は、私のドツボな時期について観察してどのように感じたかを書いている。この時に「観察者であろう」と思ったことはすっかり忘れ去られてしまったのだろうが、行動は「観察者」そのものであった。

ここで「観察者であろう」という言葉にどうしてそういう風に思ったのか、一つ思い当たることがあった。私は感激の状態を表したくなる。もともと文章を書きはじめて外に出すようになったのも、感情が打ちふるえたのを知ってもらいたくて、そして同様にそんな風に体感してもらうためのきっかけとして書くことが多かった。

このドツボな時期というのは、その感激から正反対の時期だ。そういった感激の時期も大切だが、ドツボな時期をないがしろにする必要がどこにあるのか、とも思った。何かのプロフェッショナルとなるのには、酸いも甘いも必要だ。経験値のバリエーションを経た結果に言われる言葉に力があるのであって、甘い経験だけではビギナーズラックが連続的に続いているだけだ。

こういう心情になったのは、友人の影響も高い。嬉しいことも大変なのも面白いのだという。そういう体験を楽しもうと言う。「今の仕事が好きなのは、仕事で口喧嘩ができることだよ! 刃向かってこられたらワクワクするよ!」というような人間なのでさもありなん。

今まで私は心おだやかに生きていくことを目指していた。ブログも昔は控えめに行っていた。

しかしながら、公私ともにそうも言ってられない状況だし、嵐のサーファーよろしく、荒波に乗り出す必要があるのだとは薄々感じている。

問題はそこに入った際の精神的安寧の作り方だ。

GTDでは今まで具体的な作業の嵐から、作業に対して安寧といえるセイフティゾーンを作るべく働いてきた。

3rd: 本当の1st

私が「観察者であろう」と決意しはじめたのには、阿久悠の日記の本を読んだことにもある。

阿久悠は観察者だった。そんな観察者の阿久悠を私は好きだ。彼がこんな風に観察者になるなら私もなってもいいやって思った。

最後の後押しなんて、こんなものだ。