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GTDメインのタスク管理と生息してますログを記載しています。

コミットしたいことを思ったことを収集しなさい

GTDの収集範囲は?

2008年6月にDavid Allenが日本にやってきた時、私は個人的に質問した。訊ねたかったことは、収集する範囲についてだ。当時、収集範囲の対象が、私の中でかなり拡張していた。その時点で私なりの結論みたいなのがおぼろげにあったのだが、まだはっきりと言葉にはなっていなかった。結局、曖昧なままに質問したところ、Davidからアドバイスを頂いた。

コミットしたいことを思ったことを収集しなさい

上記の言葉を思い直しては、GTDの収集の対象がそもそもどういったものなのか、考え直した。

私がこの言葉を最初に耳にした時、違和感を感じた。というのも、私が収集の対象範囲のイメージとは、異なったからだ。私はどちらかというと、コミットする以前のどうともしがたいものでも収集すればいいんではないか、という風に広がっていたところだ。ところが、Davidから出てきた言葉は真逆であった。

人間に思考スタイルがあるならば、人間の作った道具にも思考スタイルがありうる

時同じくして、私はエマジェネティックスを知った。エマジェネティックスは思考分析の一種であり、人の考える傾向は、分析型・ディテール型・社交型・コンセプト型の4つの思考スタイルの比率で捉えようとしている。この考え方は、歩かの思考分析よりも柔軟で、どんなパターンの人間でも説明することが可能である。

さて、仕組みや道具は、人間が作ったものである。であるからして、人間の思想を反映することもある。GTDも何らかの思考スタイルの偏りがあるんじゃないかと、最近では思っている。GTDの5ステップ自体は、コンセプト型をよりよく反映しているため、GTD全体についても、コンセプト型の思想をよりよく反映したものだと、当初思っていた。私はコンセプト型が強いので、だから親しみやすいのかと思っていた。しかし、Davidの上記の言葉や、そもそもGTDが仕事を成し遂げる仕組みであることを考えると、コンセプト型だけではない何かが含まれていることを、薄々と感じるようになった。

コンセプト型だけではない何か――それはディテール型だろうと、考えるように至った。ディテール型は、理論的・実践的ということから、極めて実現的な内容を重視する。私がいろいろなディテール型とおぼしき人間を見てきて思ったのは、彼らは一律の箱を用意することである。彼らは順序が好きで、存在するものとそうでないものとをクリアに区別する。そして、ディテール型はある基準に従って、箱に収めてのみ、その存在を認めるのである。この存在の認め方が、Davidの言わんとしていることなと同じではないかと思ったのだ。

ディテール型のコミットした『物』

コミットすることは、ディテール型で言うところの箱に収めることである。箱は、GTDのリストだと言葉に相応する。言葉という箱に気持ちが収められた時、彼らはその存在を認める。そして――以降がディテール型の特徴だと思うのだが――このその箱に収まった時点で、彼らの箱に対する意思はほぼ固まっている。

そう思うに至った際の材料として、上記のようなことがある。例えば、PoICの4カード(以降便宜的にタグと呼ぶ)には、かなりクリアな基準がある。ディテール型は、これはアイデアだ!と、かなりクリアに考えているように感じる。実際はどうかは分からないが。

また、シリアル・ポップな日々のakizukidさんの場合だと、「これは僕は真逆になんでも残ってしまうのが嫌だ、という感覚がある。」という文面があり、ある程度取捨選択した結果のみを必要としているのが伺える。反対に言えば、必要かそうでないかが、ある程度自分の中でクリアになっているのである。いずれにしても、曖昧さを感じなかった。

コンセプト型の出力する曖昧な『物』

しかし、コンセプト型はそうもいかないのである。PoICのタグを考える時にいつも気になるのが、感想というには放っておけず、アイデアというには曖昧なものの場合、どちらにタグを付ければいいのだろうか、ということである。そもそも、感想を書いている間にアイデアに変容していくことはよくあることだ。そして、コンセプト型はその変容に対してあまり区別をしない。というか変容しているとも気がつかない。どのリストに所属するかで、まず困惑する。

で、そういう曖昧な、これからそれに対してコミットするかどうかわからないものも、収集の対象にしていいんじゃないのかと思い、冒頭のように質問しようと思ったのだ。

しかし、これは完全に私のGTDへの誤解であった。GTDはディテール型の強い人間が数に対抗して遂行ために、コンセプト型のフレームワークを利用したやり方である。少なくともDavid Allenの当初考えていたであろう最終単位は、ディテール型の明確な一律の箱であるように思われる。

私はというと、クリアな箱もあるし、ビニール袋のような場合もある。そして、大きな特徴として、、箱の中身が、リストにまたぐかそうでないかの変容を遂げる間に、私は箱に入れてしまうのだ。私が扱っていたのは、コンセプト型仕様の箱だったのであり、成長過程の『物』を頭の中から収集してしまう癖があるように思われる。思うに、GTDはこのような曖昧な『物』が収集されることは、そもそも想定外だったのではないだろうか。

PoICはこの曖昧な成長過程を、タスクフォースで、過去データから創出する。ちなみにコンセプト型は、『エマジェネティックス』でも説明していた通り、頭のるつぼへありったけの材料をつぎ込み、ありったけの実験をした後に、神頼みになる。頭の中でタスクフォースされる感じと言えばよいだろう。

そう考えると、私がGTDについて感じてきたいろいろな違和感に説明がつくようになった。GTDのアプリケーションがほとんどが線形的でSomedayリストやReferenceリストにあまり配慮してなかったり、Pile of Index Cardsの中で99%と1%と言われたりすることも、そのディテール型の箱をGTDで想定しているならば、とても合点が行く。もともとGTDはディテール型の強い人間のためのシステムであったし、そしてそれに集まる人間もディテール型の強い人間がほとんどであることも、そして彼らが、その箱によって築かれる平面そして時次元の世界に、気づきにくいことも。

冒頭で示したDavidのアドバイスと、David Allenの定義したGTDとについて、推測とは言え、私の中でようやく消化できたような気がする。私のみているGTDと彼のそれとの異なり方を理解した。しかし、その私の理解したそれであっても、GTDという枠組みは崩壊することなく、包括した。思想を分かつとも、枠組みはそれさえも許容するのである。