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飯と酒と時々GTD

GTD Japan Review(9) 総括

最終回である。

総括

今回の一連の記事は、今までつらつらと思ってきたことややってきたことをまとめたかったことにある。もともと2009年の年末に書き始めた内容のもので、当初は年末の締めくくりの記事として出す予定だった。が、なんだかんだと流れてしまい、春の今となったわけだ。

Reviewという意味ではその名の通りに見直しをすることができたのですっきりしたところである。日本で流行らない理由をつらつら考えてきたけれども、考えておきながら、実際は好き勝手に活動しているようにしか見えない。ゴールまでがあまりに遠くて、今はただ、手のつけられる所ぐらいか範囲が広げられないからだ。

自分のやってきたことは、集中してそれをしていないにも関わらずよく実行できたなと思うものの、分量的にやっぱり少ないなぁと思う。けれども、私のフィーバーサイクルが半年持てばいい方なのを考えると、GTDは長らく活動が続いている方だ。私の傾向から見れば、たいした活動だ。やったね自分! がんばったね自分!! と褒めておこう。

そんなわけで、今までの活動はこれで一旦〆。明日からはまた新たな気持ちで進めていきたい。

以降は今回書き連ねる暇のなかったのを軽くまとめた内容である。これをもうちょっと引き伸ばして記事をかけたら、断続的な刺激になるのでわと思うことしきりであるが、一旦放出しておく。

1.日本でGTDが流行らない理由へのいろいろなレスポンスを受けての再考察

Twitterやブログで流行らない理由についていろいろなレスポンスを受けた。もともとこの記事は2009年の年末ぐらいに書き始めたもので、要旨はさほど変わらずに書き直したものだ。なので、思考の開始から数か月たったこと、それから今回レスポンスのあった内容から、私自身も流行らない理由への感想はばらばらと変わってきている。

で、納得したのが下記の通り。

これらの理由から「日本でGTDが流行していない」と私は考える。つまりGTDの中に潜む何か、日本社会の労働環境に潜む何かが問題を持っているわけではないということだ。GTDに関しては単にティッピングポイントを超えていないだけ、そんな印象を受ける。

R-style ≫ GTDは何のために行うのか?

あー、である。というかそうだよな、そうだよね。

実は、あれは煽るための記事だったのだ。

と、いうのは嘘です。

気を取り直して、なんであんな風に考えたのかと、自分を振り返ってみると、GTDを取り上げた際の日本のマネージャ層の反応の仕方、それからGTDを会社に取り入れたい際にボトムアップで回りを巻き込んでするのがいいと言われたことがある。

そもそも会社への導入は実績もさることながら、会社全体の生産性を上げるためにはどうしたらいいか、といった時にGTDやりゃいいじゃん!と思ったんである。例えばプロジェクトでGTDサイクルをするにはどうしたらいいかと。じゃあそのプロジェクトにGTDサイクルを適用すればうまくいくか、と言えばそれはうまくいかないと、David Allenがどこかで発言していた。でも、個人個人にGTDを適用して、それからプロジェクトとしてGTDを展開すればうまくいく、と。となると次に実現するためにはそのグループを構成している全員にGTDを適用するためには? GTDがやれ言えばいいんでないのか、と。

それと同時に個人へのアプローチも合わせて行っていた。私はここらへんはせっかちな人間で、理論はともかくやればそのうちわかるから! というエマジェネティックスのコンセプトそのもののアプローチで押し切りたくなったのだった。で、トップダウンで仕事をした時に話の通りがよかったんで、それで上からやれれば早くに会社に適用できるんじゃないか、と。

などなどの目論見の結果があーなったんじゃないかなと思った。

とりあえず数が足りない。

ある意味、反応がよくなったんでええんではないかと思う。

「知識を行動に移せない理由」については、また折を見て見直したい所である。

2.GTD実施者の成功例を増やすために強制的にさせるために、会社を使うのはどうだろうか?

私はGTDを会社で一貫してしたいと思っている。理由はいくつかあって、その一つに、GTDを正確に実行するには、強制力のある状況でない限り難しいことがある。GTDを本格的に行うには、かなりの拘束時間が必要となるし、それなりの忍耐力が必要となる。

ぶっちゃけ処理ステップって、ちまちました要件を片っ端から片付けていくようなものだ。これをまじめに行おうとすると、それ相応の気力体力が必要になるのも測り知れるだろう。

で、これを個人で行うと、おざなりに行ってしまい、結局GTDってこんなもんなのかしら、ていうことになる。まぁ、一所懸命行うラジオ体操と寝ぼけ眼で行うラジオ体操とでは、雲泥の差があるように。

で、その強制的に行うことで、厳密に近い方のGTDを実現したいがために、会社を使ってGTDを厳密に実行できる状況に追い込みたいと思ったのだった。

アメリカでは、会社から強制されるから、正確なGTDが伝授される比率が、高いのがあったんだろうと思う。

3.GTDは社員の成長期間への対応と、チャネル対応のために有効ではないのか?

会社でGTDが必要なのは、社員の成長に関する時間的な問題もあるからと思う。昔の頃は今に比べると牧歌的で、社員が成長するまでにも結構な時間の余裕があった。しかし、昨今の仕事事情は忙しく、社員が入社して一人前になるまでには時間が昔に比べて短くなってきているように思う。

また、仕事の状況も刻一刻と変わってきている。特にチャネル数が昔に比べると極端に増えた。ベンジャミンフランクリンの時代はまだコンテクストが場所ぐらいだったのが、今は同じ社内でも、電話・ネット・メール・ミーティングなどなど、ありとあらゆるところから新しい情報がやってくる。

その二つがあいまって、会社自体が社員に対して、それらの環境に相応するような成長剤を用いる必要があるだろう。それが私はGTDだと思っている。

4.GTDは会社の業務改善の一つの解決策として有効ではないのか?

私が何か問題があった際に、次の順番で対策を考える。

(1)自分に対して、行動的対策を考える

(2)自分に対して、思考的対策を考える

(3)外部に対して、行動的対策を考える

七つの習慣にインサイドアウトというのがある。GTDはこのうちインサイドに対する内容で、そして(1)に相当する。

会社の戦略的にも同じことが言えるだろう。外部で売上を上げる(3)の対策と、会社内部の業務改革等での対応を行う(1)の対策とである。

(1)はポピュラーな対策として業務改革がある。業務フローを見直すことでもっと抜本的に効率化ができないものかと考える試みだ。GTDはそういう抜本的な大仰な流れを変えるものではなく、各個人の活動に関して見直しをかけるものだ。しいていうなら、全機械の歯車に油をさして回るような作業のようでもある。

確かにGTDは業務改革から見たら、小さな対応策のようにも見える。しかしながら、実際GTDを行うのは、エネルギーの省力化であって、業務改革が目指す効率化の目的と違うことはないはずだ。

正直インパクトも初期コストも小さいので、業務効率を行う上で、ひとつのメニューとして選ぶのには最適なのにと思っている。

5.GTDは会社全体の仕事の標準化のために一つの基準として用いることはできないのだろうか?

私が会社でGTDをしていて一番楽だったのは、週報を書くことだ。上司に連絡する単位をGTDのプロジェクトの単位で考えて、丁度GTDのレビューと週報を書くのを合わせて行っていた。また、週報は必須項目なので、GTDの週次レビューを半強制的に行うことができた。

それ以上に何より思ったのは、会社全員がこのような粒度で考えることができたりすると、もっと作業もれや手順の考え方などに齟齬が生じないんじゃないかなと思った。

6.GTDは、各社員の精神的成長のための手段として有効ではないのか?

成長期間への対応については、時間的な問題について焦点を置いた内容だ。ここで言う成長とは、人間的成長であり、例えばいかに大局的な視点で見ることができるように社員を成長させられるか、ということである。これについては、ドリルなどが用意されて鍛練を組むような内容も用意している。

で、この教材としてGTDのサイクルを回す習慣をつけることによって、成長を促せるのではないかと思う。事実私がそのように成長できたように思う。

以下のような成長を目指すためにはどうすべきか?何か補助となるものはあるのか? といったところの一つの補助としてGTDが役立つんではないかと思っている。

人とは本来、自分なりの考えや哲学を持って行動するものです。仕事の目標を自分なりに決めて、悩みながらまた幾度となく壁にぶつかりながら、自分の目指すものに挑戦を重ねていく。そこから仕事の知恵を体得し、次のステップに進んでいくのです。そのプロセスを省略して一気に答えにたどりつこうとしては、「なぜそうなのか」と自力で考える力が養われません。そもそも最初から答えがある仕事は、仕事ではなく作業です。仕事とは、自ら問題を見つけ出し、その解を探し求めていくものです。

「仕事術」だけで未来は切り開けない:日経ビジネスオンライン

7.GTDは、自分の中で生じる矛盾した気持ちを同居するために有効ではないのか?

私が公私ともにGTDを好んで使っているのは、とにかく自分自身を否定するわけではないように動くことができたからだ。

私はこれがいい! と思う「思いつきだよ人生は」チームと、実現できるかどうかのチェックする機構の「実現検証監査」チームとが大きくいる。この二つのチームは私の中にいて非常に悪いチーム仲であった。「思いつきだよ人生は」チームの思いつきに対して逐一「実現検証監査」チームがチェックを入れて、実現できないじゃないか、もうちょっと夢見物語じゃなくて地に張ったやり方を提示しろよ、実現的じゃないし、そもそも筋が通ってないから納得ができないじゃないか、とちくちくちくちく文句を言う。自分の思いつきなのに。

そんなんで、私の中では、思いついてはそれを自分で否定し、また思いついてはそれを自分で打ち消し、さらにまた思いついては自分で茶々を入れ、というような繰り返しを行ってきていた。

二つの意見は確かに相反しつつも、どちらの意見も私の真実の意見でもある。それを、GTDは考えるタイミングをずらすことで実現した。タイミングをずらすだけで、それまで批判的にしか動いていなかった「実現検証監査」チームは、同時に考えた時より、実現できるかという点に絞って考えるようになった。

このように、GTDは、相反する考え方を有効活用できるのではないかと思っている。

8.GTDは、自分の中で生じる過去と現在と未来の情報引き継ぎを補足するために有効ではないのか?

私は存外記憶を保持するのが薄い人間だ。懐かしいという感覚もちょっと薄くて、若干不安になるぐらいだ。なので、自分が昔言った内容などにはあまり記憶を思い出す方法では信用がならない。仕事でプログラミングをしたら更にその考えは確信になった。3か月前のコードが、何をしたかったのかがよくわからなくなるのだ。

だから、3か月前の私も赤の他人なのであって、引き継ぎ作業が必要となる。それがGTDで取り交わすメモがその引き継ぎデータとなるのではないのかと思っている。少なくとも私は昔の私がしたかった内容を確認することができるようになって非常に嬉しい。薄れゆく記憶の中で、少ないながらも昔の私の残したものを繋げていくことができる。

ということに非常に納得したエピソードがある。ライフハック心理学の一つの記事で、メメント(記憶が5分か10分で戻ってしまう男の人の話)を取り上げていたのとあとタスクシュート(15分単位でタスクを管理するシステム)の話があって、そのタスクシュートの15分が、丁度メメントの10分のように相当できる、とかなんとか。

で、私たちはメメントの彼のように、くっきりと記憶が断絶するわけではなく、つなぎつなぎの記憶で私という個の精神が成り立っているんだと納得した。特に、視界の障害で、私たちは流れる映像のように見えているけれども、これが1秒や数秒の静止画でしか見えない人がいる。記憶もこのように合間と合間を繋げる機能があるんではないかと思う。

そんなんで、記憶がすぐに揮発してしまう人間でも、GTDというサイクルを行うことによって、記憶の引き継ぎを一個人ででき、補完できるのではないかと思う。

9.GTDは、自然な仕組みではないのか?

GTDの仕組みは、至極自然だ。

高校の時、郵便局のバイトをしたことがある。私が受け持ったのは一番最後の状態で、ある番地の年賀状を各家毎に振り分けるものだった。最初、局員の方から説明された内容は、仕切りから左から順に1番地2番地という順で割り振りなさい、というものだった。最初は私もそれをしていたんだが、少し工夫した。

(1)まず数の多い家とそうでない家でわけ、(2)そうでない家でさらに分け、(3)最後に全家に対して不備がないかチェックする、という段階を踏んで行った。

動作をまとめる、という視点に立てば、上記のような工夫の仕方もGTDではないかと思う。そして私がそのような風にするのは至極普通で特に違和感はないのだ。上のやり方にしたって、別に特段詳しく考えてやったことではない。ただ、自分の作業を楽にかつ素早く行うためにはどうしたらいいのか、と思った結果である。

このような考え方は、私に限ったことではなく、自分の得意な分野、好きなものに関して発露されるものだ。なぜなら、自分の好きなものならば個数をこなしたいので自然と多数の項目をこなすための方法を編み出す。それがGTDの基本となる枠組みとなる。

そんなんで、もうちょっと軽い考え方で展開できないものかとも思うことがある。

10.GTDは、いろんな意味でストレスフリー

GTDはストレスフリーな活動の技術であるけれども、じゃあいったいどんな点でストレスフリーなのかを考えると多分にあって絞りきれない。

今ざらっと思いつくストレスフリーな詳細というと、以下のようなものがある。

・忙しい中でもセイフティゾーンを見つけることができるので、ストレスフリー ・覚えておかなきゃいけないことが、外部の信頼システムに預けておけるので、忘れる心配から解放されるので、ストレスフリー ・タスクを切り替えるのに今までは何も材料がなかったが、それを効果的に行う術が見つかって、ストレスフリー ・自分の中で生じる矛盾を、ステップで時間をずらして実行することで、効果的に用いることができて、ストレスフリー ・私が昔やろうと約束したことを忘れずに実行できて、約束を守ることができて、ストレスフリー ・自分ができる範囲とできない範囲、つまり自分の責任範囲の区別ができるようになって、不用意に責任を感じなくてもいいことがわかるようになって、ストレスフリー ・タスク管理をする際に、今まで苦手だった時間の概念を別に取り扱いすることができるので、ストレスフリー ・今まで私が自然にやっていた自分のやり方をGTDのやり方です!と言えるようになって、ストレスフリー

11.GTDの好きなところ

最後にGTDの好きなところで、この一連の記事を締めくくろう。

GTDは、GTD自身をなじらなくてもいい

私は存外天邪鬼で文句言いな人間だ。筋が通らない部分が見つかったりすると、それだけでそれ自体の完全性の輝きを失ってしまい、がっかりする。

仕事術についてもいろんなものを見かけてきて、一部は私も導入させてもらったり助けてもらっている。しかし一部だ。全部というわけではない。

りんごを一片だけかじったようで、他を拒否してしまうのはなんだかいつも切ない。そしてそう思う自分も切ない。

GTDはりんごそのままを丸呑みできた。咀嚼もしているけれどもまだまだ味が出てきてこれまた美味い。

そういう個の全体をして認められることは、私にとって数少ないことだ。GTDは矛盾なく存在している。その概念形成が素晴らしい。

GTDは、私自身の全てを包括し、許容する

GTDは一部ではなく全部を飲み込むことができると上で話したが、私自身もGTDに全部飲み込むことができる。

例えば仕事術といったようなものでは、仕事関連などのみに焦点を当てており、私生活での家事やら雑多なことなどは、範疇外としている。けれども、仕事といっても、結局は私という全体活動の一部分なのであって、生活とのバランスがあって、仕事が成り立つ。

GTDでは、その対象範囲を私自身、としているために何でも対象として考えてもいいので非常に楽だ。こういう、活動の指針としてGTDが流れているのはとてもいいなぁと思う。

GTDはその対象範囲を私自身としており、その時間的な対象も今だけに絞っているわけではない。私がそれを許容しさえすれば、私の人生の全てを包括しても構いはしない。GTDは太っ腹だ。

更に拡張して、実現するのが私であることを制限を解放しさえすれば、更にGTDの対象範囲は広がる。私が存在してもしなくてもいいのだから、その時間的対象は100年200年にまで拡張することができる。理論的には。

それらの対象範囲の広がりをGTDは持っていて、私は使えば使うほどその対象範囲が広がるように感じている。

GTDは使えば使うほど味が出て、私自身と形を融合していく。しいて言うなら私は、私は食べ物の消化システムと類似した、情報の消化システムを手に入れたのである。

GTDは、私がしたいことをしたい、というのを実現するのに手助けしてくれる

昔の勉強会で私のGTDの実装を紹介したことがある。そのとき、私のGTDのいいところは、自分がしたいことがしたい時にしたいようにできる、と説明した。

GTDは可能性を狭めるのではなく、拡張してくれる。例えば今は実現できなくても時期をずらして実行することを可能にするようにSomedayリストに入れられるようにする。そうすると、昔私がしたかったことも、タイムカプセルのように働いて、いつかは実現できる可能性を残しているのだ。今までは、そんな内容は砂漠にある砂金のごとくに取りこぼしがちだったものだろう。

そういう意味では、私はGTDをするようになって欲張りになった。欲望を否定しなくてもよくなった。トリッキーな、大それた、現実を度外視した、といったような内容をInboxに入れたとしても、Somedayリストに保管してくれることを知っているからだ。棄却されるのとされないのとでは、大いに違う。

GTDは、自信をもたらしてくれる。

私は、私というものがばらばらだった。

私には矛盾する二つの考えが同時に生じる。それが苦痛でたまらなかった。そんな風だったので、ずいぶん自分が一つの個として存在しているのが、どうにも不思議に思っていることがあった。

私は本当に私として存在しているのかしら、と。

自分というものに確信がもてず、判断するにもその判断内容に自分自身が納得していなかった。また自分の気持ちも一つの事象から複数の入り混じった感情がもわっと膨れ上がって、毎回私はそれを仕分けしなくてはならなかった。

私は私がよくわからなかった。今でもその傾向は大いにあるが、昔はもっとわからなかった。

それを取りまとめることができるようになったのがGTDである。

感情が言葉に全てひもづいているわけではないことを知ったのだ。

そして処理ステップを繰り返すことによって私の判断というものがどんな風に決め、そしてその結果どうなったかをレビューステップで見直しをかける。そうすることで、私が生じさせる因果の傾向が見えてき、そしてその結果、自分の判断基準がだんだんと確固たるものとなっていく。そのように思えた。

また実行していくことで、自分の判断と行動に確信することができ、それが自信へとつながっていったのである。

終わりは全てのはじまりだ

GTDはGetting Things Doneの名の通り、成すべきことをなす事だ。私はそれを、GTDを広げるために、成すべきことをし、そしてこれからも続けていく。

私だけに流行っていてもしょうがない。もっともっとGTDのことでみんなにも活動してほしい。私は言うことはできるが実行力に乏しい。でも私だけでなく何人か集まればできるんじゃないか。

さてこれにて一連の記事は終わり。GTDについては最近伝えたい気持ちが強すぎてこだわりすぎていた。私の気持ちが少しでも伝わればと思う。

今までご愛読ありがとうございました。そしてこれからも新たに宜しくお願いします。