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飯と酒と時々GTD

『解放』の歴史

帰省した折に探したいと思っていたのが中学2年時の自由研究だ。その当時、私は自由研究を何にすればいいのか途方にあけくれ、結局外出せずに家の資料でできそうな思考展開――要するに、今のブログで書いているようなものを提出した。 私が今でもその自由研究に気がとられるのは、その時書いた内容によるものだ。

で、実際どんなものを書いたのかを現物を見て確認したかったのだが、小学校の文集は取っていても、中学校の分は取ってなかった。 だから、今からは私の記憶にたよって、その時の自由研究を思い出しておく。


テーマは、「人間と解放」だ。 人間は幾多の進化の遂げるうちに、いくつかの解放を遂げてきたのだという。宗教であれ何であれ、そしてそこには転機というものがある。2000年の中でその転機となるものをピックアップして説明した内容だった。

存在不安定からの解放

一つは、農耕生活。

農耕生活を行うことで、安定した食を提供する術を覚えた。これにより、不安定な食生活から解放された。これは、人間という固体自体が存在するのに不安定だったことから解放されたことでもある。

食うに困らぬかは、現代でも一番確保すべき課題だ。これがあるとないとでは、思考の余裕が全く異なる。不安定な食生活からの解放は、考える余裕を得たのである。

存在不安定意義からの解放

一つは、神話と宗教である。存在不安定意義からの解放である。

自分は何であるのか、何をするためにここに存在するのか? かようにどうしてそんなことを考えるのか――人が人として、そのように考え始めるようになったのはいつからだろう。

不安定な食生活から逃れ、更に共同生活をして生命危険からの解放は進歩したであろう。かわりに、生命の危険に気を配る以外に、別のことにも気を配ることができるようになった。 その一つが、今度は自分の存在意義だ。

誰がそのように言い始めたのだろうか。神話を作り、その神話に神を作り、そしてその神をあがめたてまつり始めることで、宗教が生まれた。 思考の自由を得たかわりに、今度は存在の不安定さをしょいこんだ。それを少しでも軽減するために、安定剤の一つとして神話と宗教は生まれたようにも思う。

神からの解放

一つは、キリスト教。神からの解放である。

それまでの神と言えば、とにかく人間味くさくって、娘を嫁にしたり、嫉妬で所かまわず石にしたり、喧嘩のために80年もの月日をついやして、仲裁をとりなしていた神ですらうんざりさせられたり、といったような、おおっぴろげな痴話ゲンカをするのが神というものだ、という説明が多かった。 ちなみに、上記はギリシア神話とエジプト神話からの引用である。

そんなんで、私の見方から言えば、神⇒わがまま⇒人間はとばっちりにあう⇒神は大切にしておかないと、いつなんどき脅威がこの世界にあふれることやら⇒くわばらくわばら、といった印象がある。これはまぁ、飢饉や嵐が、神様が大怒りされた、と考えるのが、理由がないとそわそわする人間の対応策だったに違いない。

しかしながら、毎回神の怒りに対して恭しく考えるのも大変だ、だいたい俺達は周りの人間と手と手を合わせてやってるんだから、周りを大切にしようぜ! というのを簡単に説明したのが、キリスト教な気がする。

キリスト教が大切にするのは神ではあるが、その教理の一つには「隣人を愛せよ」とある。 というか、キリスト教は、まわりを大切にすることこそが、神様を大切にすることだ、なぜならまわり全体が神様の体現したものであるのだからとのたまう。

そんなんで、わけのわからぬものを対象として行動していた宗教は、わけのわかる回りを対象として行動する宗教へと移り変わるようになる。

宗教 からの解放

宗教とは、昔の人間にとってのよりどころだったに違いない。 その人の信念とも結びつき、結びつきの強いものとなっている。その宗教自体に是である場合はいいだろう。しかし、宗教そのもの自体に疑いを持っていた場合はどうなのか? しかし、人間は可能にした。

一つは、宗教改革。宗教からの解放である。

キリスト教は受け入れられ、しかしながらはびこり、今度はキリスト教の理念が、というよりそれを展開する団体が権力を振りかざすようにもなった。 その団体から解放し、指定された宗教ではなく一人ひとりが自分がこうだろうという考えに基づいて、宗教の教え自体に殉ずることを許されたのである。

存在目的労働からの解放

信念に等しい宗教を選び、私たち人間は数々のものから自らを解放してきた。これ以上の解放などあるわけ、とも思われるが、解放は進化とともに進む。人類はまた転機を迎える。

一つは、産業革命。生活のための労働からの解放である。

私たちの労働とは、食うに困らぬように労働をしてきた。これが産業革命によって、昔よりかは生活のための労働から解放されてきた。それによって、生存する以外のことに行動することができるようになったのである。


と、いうようなことを、書きあげたように思う。

「解放」という概念自体は、今の私ですら思いあたるテーマの一つだ。解放とは、ある一つを定常状態に持っていくこと。そうすれば、おのずとそれから解放することができる。 日常の生活でも、定常パターンといったものはある。それをするのに抵抗感がないものが、解放されたものに当たる。どんな時もそれを施行するのにエネルギーを必要としないものでもある。息をするのが面倒くさい、とはだれも思わないであろう。

今回このように書いていて思ったのは、三つ子の魂は百までだ、ということだ。自分が今まさに新しく考えた! と思っても、その思考の種子自体は結構な大昔から大事に育てられている。ただ、刈り取りが今というだけで。 あの当時は何も考えていなかった。解放という風に思ったのも、第一感のごとくとにかく書けるものを、と思っただけで記しただけのものである。それでも、テーマという点においては共通項がどこかしら存在している、今十数年経ったとしてもあまり変わらないことに、自分自身驚きをかくせない。

このように、人間は幾多の解放を重ねて現在へと続いている。 これが進化というか退化というかは、相対的評価である。どの時代が幸不幸かも、やはりそれは相対的な評価である。 これからも人は何かを解放し、何をかの自由を獲得し、何をか失っていくであろう。それは私自身に対しても言えることであり、そして全体に対しても言えることである。

さて、次に解放するのは何だろう?