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飯と酒と時々GTD

変わりゆきて変わりゆきない「私たち」

どうしても自分を変えられない:自己変革を妨げる「私」のなかの「私たち」 | Lifehacking.jp
http://lifehacking.jp/2008/10/first-person-plural/

私たちは「自我」というと、今日も明日も「私」という一人の人が持続して存在していると考えます。しかし最近の心理学の研究で、より現実的にはいくつもの「あれをしよう」「いや、これをしよう」と争う異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が、いわゆる「私」という自我の本質なのではないかという学説が提示されているという話題です。

この話を聞いて、私は安堵しました。というのも、私の中でどのようなことが起こっているのかについて、一つのモデルが提供されたからです。

今回は、このあたりに関係する思考の経緯についてまとめておこうと思います。

■「私でないワタシ」と「私でないわたし」

異なる自我に振り回されることは、私にとってよくあることでした。人によってその強弱はあれども、似たようなことはあると思います。私は特に面倒くさがりな方で、その面倒くさがりな部分がどうやってもなんともできません。私自身が意識する以上に速く、体が拒否をしがちです。私は、声無き声の影響が高い方です。

今思えばそれは、私自身が私をうまくコントロールできなかったように思います。私は私部分を大きく二分割して考えています。「私でないワタシ」と「私でないわたし」です。簡単に言うと「ワタシ」が潜在意識で「わたし」が意識で話す方、その二つが住んでいる肉体としての総合名称として「私」を使い分けています。

■GTDで「私でないワタシ」と「私でないわたし」とが話せるようになった

GTDで非常にクリアになったのは、この私たちが一つの総合体として会話ができるようになったことです。今までは統制がとれず、二人とも好き勝手なことを言っていました。だから「外国に行きたい!」というような私の一部の発言に、私の一部が現実不可能だと腹立たしく感じていたりします。それが、同じ体の中で起こることを私は知っていました。言わば内紛状態です。

けれども、GTDではそれらの無鉄砲な発言も、GTDの言うところの安心するシステムに預けることで、利用するタイミングを私たちで決めることで、どんな発言でも大切なワタシやわたしの一意見として取り扱えることができるようになりました。こうすることによって、ワタシとわたしが、相反することなく、「外国に行きたい!」という発言を共有することができるようになりました。

■直感というワンコと意識という羊の群れ

同じくLifehacking.jpさん経由で、GTDのシステムが、人間の意思決定システムと似ている話を知りました。これをすぐに思い出したのは、直感です。佐々木正悟さんが出版した記念でセミナーに参加したのですが、その時のこの直感が先にやってきて、次に意識という順番でやってくる、というのを大きく感じるようになりました。人間が行動するより前に判断はなされている、といった話もこれに繋がるのではないかと思います。直感と意識はいわゆる「私」で言うところの「ワタシ」と「わたし」です。セミナーの話を聞いた時には、牧場の犬と羊の群れを思い出したのを記憶しています。

このあたりから、ワタシとわたしの間に考える内容に時間差があるようにも感じてきました。

■エマジェネティックスは更に私の取り扱える内容をクリアに

それからしばらくして、私はエマジェネティックスを知ることになりました。エマジェネティックスは私にとって画期的で、私の中では一番わかりやすい思考分析のためのツールでした。脳が考えるパターンを4つのパターンでとらえた場合、その発生する頻度で区別することにしたのが、エマジェネティックスだと理解しています。

エマジェネティックスは、一人の中でも複数の思考パターンで物事を捉えるように働いている、ということです。私はエマジェネティックスを説明するのに、10人の小人さんがいて、その小人さんはそれぞれ得意分野が異なるのだというように話しています。そして比率の高い思考スタイルの小人さんが一番影響が高く、他の小人さんたちにも幅を利かせやすいのだとも言っています。

これは、私の声なき声がどうしても影響下が高いことにも説明がつきました。「ワタシ」に属する小人さんが多いので、それで私はうまく統制が取れなかったのだとも思うようになりました。

■小人さんは、つまり、争う異なる自我の不安定なコンポジット(合成)そのものなわけで

で、上記の話を聞いた時、エマジェネティックスでの小人さんの話は、全くこのコンポジットの話に相当するのではないかと思ったわけです。小人さんは、私が活動できるゲージを表したようなもので、自我という程にはそれぞれに大きな隔たりがあるわけではありません。しかし、複数のもこもこしたものが「私」という家にいると考えれば、意見が異なって家族ゲンカが起こるのも当たり前なのかなぁと思うのです。

■GTDを通じて変わったことは、未だ説明ができず

私は、未だにGTDやその他の諸々を通じて変わった内容を説明しきれずにいます。gihyo.jpではそれを自己啓発の切り口から説明しましたが、実際はもう少し異なった事象を含んでいます。少なくとも、私の中を取り扱いやすくしたということは確かです。正確に言えば、いろいろな説明が私を納得させてくれました。

ツールの適用は非常に難しいです。というのも、それを全部受け入れるには、自分自身がそれ全部を信頼する必要があります。納得のいかないものは、体に馴染みません。いろいろ今回話してきましたが、これでもまだ私の中でこれらが統一されたわけではありません。協力なネットワークを築いているものの、統合には未だ至っていません。

その中で理解したことの一つに、自分の取り扱い単位を理解した、ということが必ずあります。人にはそれぞれその人なりの取り扱い単位というのがあります。取り扱い単位ということについては、またどこかでお話できればと思います。