works4Life

飯と酒と時々GTD

私は私にとって「信頼できるシステム」ではなかった。

「信頼できるシステム」とは、GTDで見かける特徴的な言い回しだ。

GTDでは、GTDを実施できるシステムの条件として、信頼できるシステムというものを引き合いにしてきた。このGTDでいう所の信頼できるシステム、というのはなんというか考えを拡張できるのではないだろうか。

 

■私は私を信頼していなかった。

思えば、私は私を信頼していなかった。

その象徴として、私の心の動きは信用ならざるもので、未来に対して約束ができなかった。その結果、私は未来の概念が欠如していた。しかし、GTDで心持ちを管理できるようになって、その感情が時間的に続かなくてもいいことを知った。ヘンな言い方だけれども、「私」を時間的に微分して考えれば不合理から免れることを知ったのだ。

GTDを行うことで、私というシステム自体が信頼できるシステムへと変わっていった。そして、私はようやく外へ視線を向けられるようになったのだが。。

 

■外部に対するよそよそしさ

内部への心持ちは晴れやかに変わりつつあったものの、外部に対する心がまえはさほど変わることはなかった。

確かに昔に比べて外部に対して動けるようにもなった。勉強会はそのリハビリの一環でもあった。それでも、自分は外部に対してよそよそしいな、と私は思っていた。

たとえばそのよそよそしさは、次のような行動に現れでる。

  • その人を信用するまでにものすごく時間がかかる

そう、ものすごく時間がかかるのだ。

しかしまてよ、と思ったわけだ。なぜ、信用するまでにものすごく時間がかかるのだ? そもそも、信用するタイミングとはどういうものだ? 何がみたせばその人を信じるのだ? そもそも信じる前と後ではその人に対してどのように振る舞いが変わるのだろう?

 

■外部に対する私の方針

以前のエントリで、私のほかの人に対する指針を説明したものがある。

そしてそれはどのような行動の一つに表されるのかというと、私の場合、「相手に期待しない」という表現で表される。

「相手に期待しない」とは、例えば、友人に何か軽く「~するよ」といった時、必ず実行されなければならない、とは思わないようなことを示している。漠然とした状況で、「○○ちゃんは、私にこうしてくれるに違いない!」 というような根拠のない相手の行動に対する予想をしないということだ。上司が部下に「君に期待しているよ!」という期待とはまた異なる。

GTDでインサイドアウトの習慣を作る ? works4Life Season VI

こういった他に対する確固たる方針があるにも関わらず、私はそもそも、他の人からメッセージを受け取ること自体から拒否している部分がある。ブログにしたってそうだ。コメントなどは極力ないようにしむけていたりもする。

なぜ、私は他の人からメッセージを受け取ることをなるたけ控えようとするのか? 私は考え、そして答えてみた。「なぜなら、反応が安定しないからだ」と。

その時、ふと思い出した。勉強本でインタビューを受けた時に、フリーソフトを提供していた人が「ソフトで周りからほめられることが常道だった」といった。これにはなんだか驚いた。だって、私は、何かしたらほめられるどころか挫かれる、という印象が多すぎたからだ。これが、私にとって「反応が安定しないこと」だ。

 

■外部に起こった、安定しない過去の出来事

で、昔のことを思い出したら確かに挫かれることがあった。

昔ピアノをグループ教室で学んだことがあった。別のグループに助っ人で参加することを話したらはぶられたり、グループ教室の宿題で作曲をしたら、誰かの曲に似ていると言われたり(これは真偽は微妙。なんとなく似て作ったかもしれない)、ピアノの先生の受けがよかったら周りのメンバーから無視られたり、まぁそんな感じのことが小学生の時にあった。

決定打は母親だった。小学校5年生の時、私は小学校はじめての60点台をとった時のことだった。家で私は母親に呼ばれ、アイロン台を対面にして、膝づめ談判にあった。

思いっきり泣かれたのだ。そしてアイロン台にあったテストをぐちゃぐちゃにして投げつけられた。

理不尽だと思った。

つーか泣きたいのはこっちだ。そもそも理由がわからなかった。今までテストの点数で怒られたこともなかったし、そんなにほめられたこともなかったじゃないか。ピアノの練習をさぼったならまだしも、はじめて悪い点をとっただけでこうも怒られるのは、道理にあわなかった。

と、今でならその状況を理解できるものの、当時の私は世界が破壊される以外に何の術も持っていなかったのだ。 こうして、私の世界はもろくも崩れさった。嗚呼、儚きかな。

ちなみに母親とは件のことでは、大学生の時に和解をしている。母親に謝ってもらった。しかし、この時母親はそんなことをしたことをすっかり忘れていた。……。ま、そんなもんだよね。

 

■世界への疑惑と受け取る誠実さとのトレードオフ

だいぶ脱線したんだけれども、要するに、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」って、て昔の私は思うようになった。それから、「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」というのも思った。

そういった経緯のなか、それでも私は外部と誠実に接しようと試みていた。というのも、外部から受け取る事実は、確かに事実だ。これは、ピアノを通じて十分理解していたから、それをねじ曲げることはできないルールとうけとめていた。しかし、その事実が発する意図については予測がつかない。

そこで、トレードオフした内容が次のような方針をとったわけだ。

  • ほかの人がこうするだろう、という未来の行動について期待をしない
  • 事実は事実として誠実に受け止める
     

そこに「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」という認識があるため、その起こった状況に対しては誠実なのだけれども、そういう経験則が蓄積される時間は、他の人より極めて遅かった。それがどんなに仲良くて、気を許していたとしてもだ。その事実に気づいた時に、私は愕然とした。

 

そうだ。私は世界を信頼していなかったのだ。

 

ある人と話してある程度予測のたつ反応が返ってくるとは信用しておらず、何か求めれれば何か攻撃されるとばかりに敵対し、すべての現象は、すべて場当たりで予測不可能なものばかりだと決めつけていた。もしかしたら全員みんな敵やもしれぬなどと。

家族や友人など、近しい世界の人であっても、ちゃぶ台がひっくり返ってもおかしくはないと、私は思っていたのである。

 

■方針の矛盾

ところで、世界を信頼していない場合、どういうことになるのか?

現在のみが拠り所となる。つまり現金支払いだけが安心できて、クレジットカードはいつ抵当に入るかわかったもんじゃない、といったような具合だ。それは、私なりの誠実さでもって最大限のトレードオフだ。

しかしだ。

たとえば、あるAさんがxの時刻で信頼できるような行動をしたとしよう。そのxの時刻においては、Aさんの行動を信頼していたとする。それが何度も連続にあったとしたら、私は、いつになったらAさんを信頼できるとみなすのだ? トレードオフの方針はこの回答を含んでいなかった。

しかし、それではおかしい。世界の事実が誠実に無慈悲に在ることを理解した上で、その場その場での内容に真摯に私は受けとめていたた。そうでありながら、連続した内容になったとたんに個々の事実を誠実に受け止めないのはどういうことだろう? 「事実は事実として誠実に受け止める」という世界に対するルールに反している。それに、いくら「ひっくり返してもおかしくはない」とはいえ、そういう態度をとるにも限度があるだろうが。

世界を信頼していないから? 違う。何か別の理由があって、私はAさんを信頼できるとみなしていない。外部を誠実とするなら残るのはただ一つだ。原因は私だ。Aさんを信頼する以前に、私は私を信頼していなかった。

だから、私の発する言葉は、クレタ人のごとくに、信用ならざるものだった。それゆえ、私がAさんを信頼するという言葉にも信頼しないという言葉にも、私自身が信じることができなかったのだ。

なんということだ。私が世界を信頼していなかったことすら、私が私を信頼していなかったことの鏡だったとは…

 

■エマジェネティックスの信頼できる空間

私はエマジェネティックスのアソシエイト研修のことを思い出した

あの研修は、私の経験の中でも不思議な経験の一つだった。ほぼ初対面の人ばかりだったのに、わたしはエマジェネティックスのプロファイルを経由して、信頼できる空間にたたずんでいた。

エマジェネティックスのプロファイルがあったから、ある程度の参加者の傾向がわかっていた。みんなコンセプト型を優勢に持っているからちょっとはみ出した行動をしてもそんなにびっくりしないだろうと思った。

私がそんな風に思ったこと、振る舞えたことこそが、エマジェネティックスの可能性を見いだした瞬間だった。この空間が、再現できるものなら、私はおおいに協力したいと。

そう、あれは信頼できるシステムとして機能していた。

 

■エマジェネティックスの研修が信頼できるシステムとして機能していた理由

しかし、参加者のプロファイルがあるからといって、あの研修自体が、私にとって信頼できるシステムになったわけではない。

確かにエマジェネティックスのプロファイルは信用している。しかし、信用できるシステムが、信頼できるシステムに変わることができるのは、使う側のたった一つの振る舞いだ。

 

それは、委ねることだ。

 

信用できるシステムは、予測可能な事態に対して決まった対応をしてくれるというシステムとみなしている。信頼できるシステムは、さらにそこに、多少の不測の事態があるとしても、その事態を受け止める心意気が使う側にあることだ。

たとえば多少の失敗はあったとしても、それをなんとかのりきってくれると、使う側は信じ、システムがそれに応えた時、信用できるシステムは信頼できるシステムへと進化を遂げる。

 

■私が信頼していないということは?

私が世界を信頼していない=私は私を信頼していない=私は私の言葉を信頼していない、という話をしてきた。

信頼できるとは、不測の事態も受け入れる、つまりリスクを取るというのなら、私は、私が起因で不測の事態に起こりうることを避けている、ということになる。不測の事態は、おそらく私にとって、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」とか「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」とかなんだろう。

私の判断基準で動いたことが、私を不測の事態におとしめて傷つく原因になることを、私はおびえているのだ。確かに昔傷つく原因になるようなことが多数あった。私は意識して行動していなかったこともあるだろう。また、それらについて対処できるとも私は自分自身をみなしていなかった。

しかし、今は違う。あの頃とは、多分の経験も培ってきたし、自分なりに自分の制御方法も見つけてきた。無作為に自分は行動しているわけではあるまいし、自分のまわりがひどく不測の事態になるほどでもないとも経験則的に理解している。

 

パーツは揃った。

 

そろそろ気づいてもいい頃だろう?

 

 

いったい誰が私を攻撃するというのだ。
いったい誰が私を物理的世界から脅かすというのだ。
不測の事態があるからといって何だというのだ。
簡単な話だ。
飲み込むだけでいい。
そして吐き出せばいい。
お前は無分別になんでも取り込まなくてもいいことを知っているじゃないか。

 

誰も、お前の精神を蝕むものはいない。
あるとするならお前自身だ。
世界だって、結局のところお前の作った感情で赤にも青にも彩られる。
すべてはお前次第だ。
お前が世界を信頼するなら、信頼できる世界になるだろう。
たった一つ、お前がお前を信頼するならば。
自分自身に不測の事態があったとしても、それを受け入れ乗り越える心意気があるならば。
お前はお前のすべてを手に入れられるだろう。

 

 

 

 

私は、いっそすがすがしい程に、私を、私の言葉を、私の行動を、信頼していなかった。