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ロジカルシンキングって何だろう?

さっきRSSリーダーで見たら、ロジカルシンキングのセミナー紹介のページを見かけた。会社でやっていたロジカルシンキングのセミナーに、私は行ったことがある。というのも、昔は「キミの言ってることはまるで宇宙語だね」と言われたことがよくあったからだ。最近では、それほど言われることはなくなったが、その後ブログでは宇宙語どころか「論理的だね!」と言われるようになって、ますます不可解に感じてきた。なぜって、自分自身は変わったつもりはないからだ。

ロジカルシンキングの違和感

実を言うと、ロジカルシンキングの違和感というか胡散臭さというものは、ロジカルという言葉に表される「論理的な」という表現だ。論理的というものは、数学のように誰もが理解できる絶対的なものだよーん、と言われているような気がしてならない。ここでポイントとなるのは”絶対的”というものである。その考え方は、本当に、誰に対しても有効なんだろうか?

ロジカルシンキングの違和感は、これができればロジカルなのだ、という共通の基準が見つけられないことも、一因だ。ロジカルシンキングをするためのツールはよく紹介されるのだけれども、どういう風に話したり考えたりすればロジカルだと言えるのかどうかは、やっぱりわからない。

ロジカルシンキングって、人が納得すればいいんだよね?

何を満たせば、それはロンジカルシンキングの賜物なんだろうか、と考える。そうしたところ、私の結論は上記の見出しとなる。

数学も1+1を見れば、大多数が2を連想する。田の歯抜けたもの、と連想するのは少数だ。これと同様に、自分の話した内容から、相手が1+1から2を連想して理解してもらうがために、ロジカルシンキングを用いる。しかし、ロジカルシンキングの目的は理解してもらうためではないだろう。理解し、それについてその人が受け入れる=納得する、といったところまでを実現したいのではなかろうか。

しかし、納得してもらおうとする相手の種類は様々である。

ロジカルシンキングも相対的

というのが、今のところの私のロジカルシンキングの印象だ。ロジカルシンキングの何が対照的、というのかというと、そのロジカルかどうか、という判断基準がである。なぜかといえば、納得してほしい相手が多種多様だからだ。

例えば、私は説明にいたるまでの道のりを階段のように考えている。ロジカルシンキングは、なだらかな階段やバリアフリーなスロープのような感じで説明する。だから、それを理解する人の比率は高くなる。しかし、その階段の高さというものは、人によって上れる高さが異なるし、また進む手段等(空を使うか陸を使うかとか)によっても進行可能かどうかが異なる。その階段を使える人が少なくなると、宇宙語になるんじゃないのかなー、と思う。

昔の私から言わせれば、昔の言っていた私のことも、私には納得できる展開だった。ただ、それを理解できる人は、私しかいなかった。道すじがジャングルみたいなものだったからだ。たぶん。

確かに、私は昔はそういった訓練がたぶん人より少なかった。そう、少なかったのであり、私たちは知らず知らずのうちに、このようなロジカルシンキングのための訓練を行っているのである。

ロジカルシンキングの基本は「せんせいあのね」

じゃあ、小さい頃のロジカルシンキングのための訓練って何かな、て思うと「せんせいあのね」あるいは「おかあさんあのね」なんじゃないかなーと思う。子供が先生や母親に向けて、お話をするアレである。最初はこんなことがあったよ、という事象の紹介から始まり、あれしてこうしてこうなった、という時系列の流れを紹介する。更にバージョンアップすると、それに対して自分はどう思ったかの感想をいい、あるいは自分だったらこうする、といったような仮説思考を立てる。

これらを繰り返し行うことで、パターンなり何なりが形成され、順序だって考えられるようになる。原因と結果も、風が吹いたら桶屋が儲かるのも、演繹法も、たった一つの考えだけで成り立つものだ。それは「これとそれとは関係があるのだ、と信じている」こと。

 

自分コメント

  • ロジカルという言葉に何かもの言いたかったらしい。