時は流れず
(1) 私たちの考えている過去や未来といったものは、それは単に思考の産物である。時が流れているわけではない。時が流れている、と私たちが感じているだけにすぎない。
という要旨にいたく同意。
(2) 過去は変えられぬもの、と知っていながらも、すでに点数が理論上では変わらないのにも関わらず、テストの点数がわかるまで、やきもきしたり、いい点数でありますようにとお地蔵様に願ったりもする。私たちがそう願う対象は、過去そのものではなく、過去が作られる過程に対してなのである。
という要旨にも納得。
(3) 他我問題。簡単に言うと、あの人はこう考えてるんだよ、と軽い気持ちで他人の気持ちを憶測するその行動は、なぜするのかどうしてできるのかなどを真面目に意図や意義を考えること、と今のところ理解している。
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(1) 私は過去についてはとりわけ考えることはなかった。今回のように、著者が懸念していた、「過去は本当に実在するのか」ということを考えたことがないぐらい。
「もし過去が~だったら」というようなことは、私もむかしはよく考えていたのだけれども、それを考えると、今の現状をすべて無に返すことになるのを知ってやめた。やめたのは、過去仮定もそうであるし、過去に希望振り返ることなども含む。もしくは過去に恨みを合わせることも。
私は過去に対していい意味でも悪い意味でも憧憬が少ない。過ぎ去った過去について、ひどく「ああすればよかった」「こうすればよかった」と過去シミュレーションしすぎることはない。その一方で、「あの時は本当にこうで楽しかったよねー」という気持ちにもあまりならない。
未来や過去は、概念の中から形成されるものとは、私自身も経験している。とりわけ、私は未来の概念がなかった。今でこそわかっていることだが、未来は、今現在がある程度安定しており、ある一定のルールに従っていることを経験した結果、未来への可能性を想定することができる。
ここで言うある一定のルールとは、たとえばある仕事がある時系列の作業に従ってゴールまで導かれた、といったようなことだ。何度もその道をなぞることで、私たちはその流れというものが、あるものだ、と存在を疑うことがなくなった時に、未来への道が開いた。
実際昔の私の今という状況は、安心ならないものだった。考えがころころと変わるものだから、おいそれと簡単に約束はできなかったりするのだ。今に振り回されている限りにおいては、未来など見えぬものだ。
(2) 過去物語への気持ちを寄せることは、私もある。卒業試験の結果前は、すでに決まっているでろうが、明るみでない結果に対してやきもきしていた。 過去が作られるとは言え、そこに採点のブレがなくもない(チェックシート式なら話は別だが)。ただ、自分が関与している状況ではないのだから、影響力の度合いが格段に違うのだろう。たぶん、自分が関与するのと、関与できないのとでは、100と0.00001もしくはそれ以下の度合いで。
(3) 他我問題も。先ほどの過去現実未来が考えることによって存在するならば、他我問題自体も、考えることによって存在するのに帰着するのではなかろうか。過去は、「自分」が経験した内容に基づき、再現しようと試みる方法であって、再現する要素の元となるものが異なるだけと考えてもいいのではないのだろうか。過去と自分以外の誰かの要素の違いは、精度の違いとみなして。