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どうして「Evernoteに入っているから大丈夫」と思わなくなったのか

「Evernoteに入っているから大丈夫」ということにはならなかったので、私はEvernoteを使わなくなったと思うんだけれども、どうして「Evernoteに入っているから大丈夫」と思わなくなったのかを考えた。

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だってそこに入っているだけならそこから検索すればいいはずだ。なのに検索しても安心感ができなかった。なぜだろう?

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その情報に関する安心感というか、その情報が何者か、ということにはいくつかの要素でもって私は認識している。

たとえば本は少なくともその本自体の情報、そしてそれが何を経由していいと思ったかの情報、この二つの情報がそろってようやく、私にとって、信頼ある情報として成立する。しかし、Evernoteでは情報を取り扱う際には、きわめてあいまいだ。何が曖昧かというと、情報が固定化されず、いつでも変容できる可能性を持っている。それがまぁEvernoteというかNoteとしての持ち味だとも思うのだけれども。

とにかくにせよ、私は、私と私以外、それから「それ」と「それ以外」との区別を確実に、はっきりしておく必要があると思っている。いつの間にか変わることは、よしとしていない。

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Evernoteは上記のような特性もあるし、私が複数のオブジェクトで構成することを望むものを、ひとつのオブジェクトで構成しようとする。たぶんそこが、私がEvernoteと合わない理由かもしれない。もし、確固たるものでなければ、私は安易にそれを破壊する傾向があるからだ。だから、外部の時点において、限りなくクリアにしておく必要がある。

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で、なんで検索しても安心しなくなったのか? その情報が誰からの出典でどのような経緯でもって書かれた内容かがさっぱりわからないからだ。私が入れた、という事実だけでは足りない。だから、MediaMarkerのように、それ自体の情報と関連URLがつけられるような、Diigoのように、その記事とハイライトで引用なりなんなりができるような、そういった媒体を好んで使うのだろう。

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そういう意味では、システム自体にすでに方向性があることで、そこにどのような意図で保存しているか、という点からその情報の情報は付属し始めている。Evernoteはその方向性が多方向で利用し始めたために、破綻したように思う。

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私には、あるシステムにはひとつか二つ程度の方向性でなければ手に余るようだ。

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