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読書ログ 「偉大な記憶力の物語」 誰も知らない他人の鮮やかな世界

 

自分の見聞きするものは、それほど他人と変わらない。という前提にもならない前提は、覆されるわけがないが故に、前提ですら思っていなかった。まさか、その前提があっさり覆されるとは。
 
まるで写真を切り取ったかのような記憶の背景には、理路整然からは程遠い、ファンタジックで彩りの強い極彩色のような世界が広がっていて、それが記憶を補完していたなど、誰が知りようか。
 
 
偉大な記憶力の物語―ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫 学術242)
 
この本では、本の中ではシィーと呼ばれる驚異的な記憶力を持つ人物のお話である。その記憶の特徴、それから彼自身の背景などについて、仔細に説明される。
 
本の中は、不可思議な世界が流れているものの、精神の木枠は計り知れないというのが私の印象だった。
 

記憶が混じらない理由

「何ということをきくのですか、どうして忘れることができますか? だって、ここに、その塀があるでしょう――その塀はこんなに塩からい匂いがして、このようにざわざわ音をたてるし、それは、非常にする取り、指すような音をもっています」。

当然のことだが、共感覚のおかげで各経験の複合的な余剰的な情報から得ることができる非常に多くの諸特性が、正確な想起を保証するものとして作用し、直観的な材料からのいかなる誤差もあり得ないものとしているのである。

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語 P44

シィーは、共感覚の持ち主である。共感覚とは、文字を見たら色が見えるといった、ひとつのことから複数の感覚を読み取るような力のことである。シィーはこの共感覚が極めて強く、音を聞けば匂いを発し、場を見れば音を知るといったようなことができた。これによって、その場その時が一意であると特定することができた。

具体的に表象することが不可能なものを扱った場合、どうであろうか? 複雑な関係をあらわしている抽象的概念や、人間が長い歳月をかけてつくりあげてきた抽象的概念の場合、どのようになるであろうか? それらは実在し、われわれはそれらを理解することはできるが、見ることはできない……。実に、「私は、見えるものしか理解することができない」のであるから……。シィーは、このことを、何度われわれに告げたことか。

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語 P151

しかし、彼の理解は、そのような共感覚で構成されているため、彼の想像を圧迫した。彼が想像するより入力から入る像が彼の世界を満たしているようにもみえる。また、彼は、彼の世界の中で見聞きすることを通じて理解するようなため、姿なきものを捉えることが難しいようだ。ゆえに、姿なき抽象的概念を彼が理解するのは難しい。

 

身体を制御すること

シィーは、自分の心臓の働きや、自分の体温を随意にコントロールできると話しただけではなかった。彼は、実際に、そのようにコントロールすることができたのである。(中略)

どのようにして、このようなことができるだろうか?

「何が不思議なのでしょうか? 私はたんに、私が汽車を追いかけているのを見ているのです。(後略)」

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語より P161

自分で熱を出したり、蕁麻疹を出したりすることができたという人には出会ったことがあるけれども、右手と左手とで温度を変えられるとは。彼の精神と、彼の身体と、彼の外界とを三つに区画した場合、彼の身体は非常に特殊な入出力を繰り返す。外界からのデータから、通常私たちが出さないような匂いだとか音だとかの信号を形成し、それを彼の精神に送り届ける。彼の精神と彼の身体とは、密接のようであってあまり密接でなく、彼の精神からの命令についても、彼の身体は受け取りそれに対して、外界から受け取る信号のように反応することができる。

つまり、彼の精神からの信号でも、外界で「寒いから身体の温度を一旦下げよう」といった無意識の反応にアクセスできるのである。

すべての想像は、現実との境をもっている。

われわれ、想像力に限りのあるものの場合、この境界は明瞭なものである。しかし、シィーの場合、想像力が、しばしば現実感をもつ像を産みだすため、この境界が消失している。

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語 P167

この応用として、痛みを和らげたりすることをも、シィーは可能にしている。想像力で自分の頭にいる腫瘍を倒した少年の話を思い出す。それから「「思考」のすごい力」という本についても。

 

想像と現実の境界

この他、彼は、何十回も、想像上の遊びと現実の行為との中間的なものを、自分の中に認めていた。

「……私の場合、私が想像することと、実際に存在することの間に、たいしたちがいはありません……(後略)」

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語 P169

どうして、たいしたちがいはないのだろうか。

シィーは、自分が多弁であること、会話のテーマを維持するために常に注意しなければならないこと、そして、それがいつもうまくいかないことを知っていた。そして、観察者である私と、われわれの対談を記録していた速記者は、このような状況は、まだよい方だということを知っていた。著者にとっても、限りなく拡がり、脇にそれていくこの人物との対談から必要とするものをとり出すことは、如何に困難であったことか。

via ルリヤ 偉大な記憶力の物語 P179

これはシィーでなくとも、間近にある話だ。話をしている間に別のことを思い出して、それに気をとられてしまったりということである。シィーは多分、これが通常の人より何十倍何百倍何千倍も、勝手に思い出すのが多いのだろう。

 

最後に

この本はファンタジーのような現実の話である。

最後に、共感覚について考える。共感覚は、まるで私たちが夢の世界で記憶定着をするのに使っている接着剤のようなもののように見える。ただ、シィーの場合、それが寝ている間だけではなく、起きている間もいつも作動しているようにも見える。