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「自己」とは分かつもの

 

「自己」とは、単一のもののように見える――「私は私」ではないか。しかし実際には、自己の感覚は、脳のどこか1つの領域で作られているわけではなく、脳全体に張り巡らされたニューロンの広大なネットワークに支えられている。つまり私とは、「場所」というよりは「プロセス」なのだ。

「見知らぬ他人妄想」と「脳の中のゴースト」 | WIRED VISION

 

私の一番の不思議は、数十年後たった今、昔の活動を自分自身が行ってきたという確信じみた考えである。

何をもってその記憶を自分自身が行ってきたのかと保証するのか、実際のところはわからない。

しかし、私はこの数十年、生きながらえつづけてきたことはたぶん確かであるのであるが。

動物から進化を遂げた人間は、いいかえれば大昔はそのような自己意識はなかった。しかし、進化を遂げた結果、身体に現れる反応を操作するための機能、つまり私というものが形成された。

文中でもある通り、私とはプロセスである。

コギトエルゴスム、とは、まさにこのプロセスのことを指しているのであり、考える瞬間しか自分自身を感じることができないことを言っていることだと私は理解している。それ以外の何も考えていないときの自分の不完全さ。無意識に息をし続けるこの個体を、私は「私」と言い切ることができるのだろうか。

自己はある一つと思われるが実際のところ、統一したルール配下で、人間一個体で実現することは甚だ難しい。しかし、そういったルールの矛盾を生じつつも、合理的な不合理によってつじつまを合わせる。

このつじつまを分断してひとつの体に二つのつじつまを作ることがある。これが二重人格の正体であると思っている。

二重人格は自己を防衛するための、恐ろしい防御機構だ。今まで地続きだった世界を、防御するためだけに、見えない壁を作って、世界を隔たせることができるのだ。しかし複数の防御機構(人格)を作ろうとすると、それらのバランスを取ろうとする人格が現れ出るのは、なんとも不思議な光景である。

二重人格でなくとも、別のつじつまを作ることも可能かもしれない。私が思い立つのは、ガラスの仮面の狼少女だ。北島マヤは人を絶って生活することで、体で反応するようになった。仮の話なので実際それが可能かどうかはわからないが、話として作ることができた時点で、できる可能性は高い。

北島マヤはともかく、二重人格は乱暴に言えば、外部からの刺激による結果だ。反対に統一するためにはどうしたらいいのか?

それは、繰り返し訪れ、半ば記憶され、半ば予見していく必要がある。「自己」とは残りゆくものだ。彫刻が彫ることでその完成体を見つけられるように、自己もまた削られることでより完成体へと近づくことができる。

削るとは何か?それは、外部ではなく内部の自分が何かを自分自身で選ぶことにより、自分の持ついくつかの可能性を捨て、ある一つの可能性を延期させることだ。

自己とはいったいどこで発露しうるものか。差分であり違いであり異なりでありdiffであり分かつものである。同じならば、名前など必要ない。同じならば、意識する隙間すらない。

 

初出:2010/12/17