つまりは、キュレーションの形もまた多様だということです。元々のコンテンツが持つコンテキストを切り刻んで別のコンテキストの下に切り貼りするのも、元々のコンテキストに別の側面を与えたり、埋もれていた価値に深い意味を見いだすのも、同様にキュレーションです。そこに正誤や優劣があるわけではなく、そういう情報が欲しい人のもとに、そういう情報が届けられる、ただそれだけのことなのだ、と気がつきました。
R-style ≫ 書評 「キュレーションの時代」(佐々木俊尚)
キュレーションという言葉を聞くと、私は一つの美術展を思い出す。
数年前に友人と京都であった、クールベの美術展だ。クールベの子孫にあたる方々がクールベ美術館を行っており、その抜粋を展示していた。
その展示では、クールベの年代に沿って展示されていた。
クールベというと、緻密なリアリズムの自然画が有名である。この絵だけを見ると、自然を愛し、物静かな人間だろう、と私は予想を立てた。
しかし、今回の生涯にわたった絵画を見ると、それは幻想であり、もっと別な人間が描いたかのようであった。
上記のフィーバーした絵を描く前は、クールベはどちらかというとロマン主義的な絵を描くのが多かった。しかも、自画像ではなく、自分をモデルにしたという随分なナルシズムである。
ここで、クールベ=自己顕示欲の強いナルシーな奴、という図式が私の中で占有するのが決まった。
◆そんな彼が超レアリズム?
当初彼が描いていたのはロマン主義的な絵だ。しかも自分の肖像画だ。自画像で一度は入賞したものの、あまり評判は芳しくなかったようだ。
それで、彼は絵画の矛先を変え、「生きた絵画を制作すること」と言い始めた。あの、昔自分の理想とも言えるロマン主義的な自画像を描いていたあの彼がである。
私の中では、ロマン主義が彼を認めなったので、幻想のロマン主義を駆逐したい勢いで、現実の超レアリスムを、推奨しただけにしか見えなかった。
◆画壇の反逆児とは言うけれど。
嵐を吹き起こすのが趣味とも言えるような彼の行動は不思議だ。
そもそも、彼のそのエネルギーの中心となるものが何なのだろう。
一つは自己顕示欲だ。彼は注目されたかった。その形がどうであっても、ここまで反逆することを好んで(としか見えない)やっているのを見ると、典型的な煽りである。
ではなぜ反逆という形になるのだろうか。個人的には、ロマン主義への並々ならぬ憎悪としか見えない。何度も言うが、彼は自己顕示欲が甚だ激しい。特に、自分の理想とした自画像を科展に出す程なのであるのだから、筋金入りなんだと思う。
ついでに言うなら、家は裕福でボンボンだ。顔もよくってそれなりにモテたんじゃなかろうかと思う。法律家にならせようとした父親を振り切り、絵画に進んだクールベ。
確かに、彼は現実に忠実になりはしたが、私の穿った印象なのか、「俺はお前らとは違うのだ」という姿勢を貫き通したともいえる。何せ、リアリズムは彼のあたりから言い始めた主義なので、自分全肯定であるし、また弟子は弟子でクールベに心酔してるのでもてはやしてくれてたそうだし、である。実際、絵はいいポイントついてるし、誰もしたことのないようなことをするのもピカ一だった。
◆個展から浮かび上がったクールベという人物像
さて、今回の個展の中で、私はクールベの絵画とともに、クールベの性格について穿った深読みをすることができた。
一見、彼の姿勢は厳かな美術闘争の結果のようにも見えるし、実際そのとおりであったのだろうけれども、このクールベの闘争の炎が始まったのは、やはりどうしてもクールベ自身がロマン主義の絵画として認められなかったことへのテロリズムのようにしかみえない。
最初はそうだったのかもしれない。しかしそれが言っているにつれて自分がそれを追究していくことだけに結晶されていったのかもしれない。
◆キュレーションとは?
私はキュレーションというと、このような自分が知りもしないような考えに導いてくれる力を持つモノだと思う。
キュレーションとは、パーツを組み合わせ、新たなホログラフィムを作りうる力を持つ。それはとても、イノベーションにも近しい感覚を感じる。新しい世界が開くような、積み重ねから一気に化学反応を起こし、今までとは見たことのない何かが生まれだす瞬間――
写真提供:情報処理推進機構:教育用画像素材集 - インターネット美術館 - 写実主義(しゃじつしゅぎ) ? クールベ
初出:2011/01/27