この前、その筋では有名な方と帰路を共にした。その時にGTDの話になって、私はGTDだったら自分の好きにできるところがすきなのだという話になった。その時、言葉を噛み砕くようにその人が言ったのが掲題の言葉である。
私はそれを聞いて、随分不思議に思ったものだ。彼のような、有名で実績もあり、端から見れば彼の好きにやっているように見える人でさえそう思うものかと考えると、である。人によって、自分の好きなように動かない部分は異なるものだ。彼にも彼の信じるものがあり、しかしながら世界に花開かぬものがあるのだと、この世は広いのだと感じた。
GTDの話に戻そう。私がGTDが好きなのは、私の意志を曲げることなくそれを実践することができるからだ。GTDはフレームワークと言われる通り、単なる骨組みであって、こういう考えを持ちなさい、といった思想は含まれてない。これは、GTDを確立する時にDavid Allenが最も気をつけた、とどこかで聞いたことがあるから確かなことだろう。
では、どの部分が自分の意志を曲げなくてもいいのか? 時間管理でよくあるのが、この時間に作業を決めてやろうというものだ。作業する時間ぐらいすきにさせろや、と私は思うものである。また、優先度を決めろという。優先度を決めたって、どの作業をするか決めるのに寄与しないじゃないか(これはある意味正しくある意味正しくない)。
時間管理は、一言で言えば不愉快だった。しかし、何が不愉快なのかがいつもわからずにいたのだ。GTDをやるようになって理解したことだが、時間管理は、私にとってはその仕事をその時間内に終わらせることを無意識的に約束することになるからだ。少なくとも、私にとって時間を取り付けるとは、そのようなことを指し示す。つまり、どんな問題な状況があろうが、それができることを見越して時間を約束したのだから、守れないわけがない、と。そして、本来はここからが大切なのだが、時間管理は、私がそれを納得しているしていないに関わらず、約束を交わしていたのである。そしてこの勝手に約束を取り付けられていることこそが、私のもっとも不愉快なことだった。
GTDはその無意識的な約束から解放してくれた。
このような無意識的に約束する範囲は人によって微妙に異なる。 人によってこの時間的な認識は異なるものだし、それが許容できるかどうかはまた異なるものだ。
確かに彼の言うとおり、「自分の好きにするのは難しい」。いつまでたっても、私の愉快な世界にたどり着くまでには程遠く、あらゆるところで理想とは異なるものの、現実の辛酸を舐めるほかないときもよくあることだ。そんな不愉快な世界から解放されるためには、理想など放棄すればよいのだ。そうすれば、不愉快に思う基準もなくなる。
それでも私は理想を捨てたくはなかった。ここに手と足と口があり、外部に向けて動くことができるのに、なぜ不愉快な現状に納得せざるを得ないのだろうか? 年を重ねて自分の理想に近づくための方法が増えるようになった。行きたい場所があり、いくための方法を見つける手段も出揃いつつあり、向かえる足があり、道具を使える手があり、ゴールを見据える目がある。それでも行き着く場所に行くまでには困難な道のりなのかもしれない。
自分の理想に辿りつくのは難しい。
初出:
- 2009/11/10