人生はツールではない、というかなんというか - 思っているよりもずっとずっと人生は短い。
私の友人の一人に、きわめて実行的な人間がいる。会社に勤めながら大学院に入学したり、その後は資格の習得をしたり、今は料理教室に通って余念がない。その友人にGTDを中途半端に説明したところ、上記の記事のような似た感じの反応があった。
友人の指摘
その友人が指摘するにはいくつかあり、上記記事と似た反応以外にも、仕事においてGTDを実施するには有効である、しかしながら私生活においてこれを実施することは難しいだろうというものがあった。
これについては、理由も合わせて列挙された。 まず、時間がないこと。週次レビューをかけるような時間をとるのは難しいであるとこと。 次に、レビューする以上に実行するのに時間はないこと。せいぜい自分にできるのは自分に思いついた一番最初の事柄を行うぐらいだけであること。 3番目に、実行するには制約があること。身体的及び精神的疲弊とコスト=お金があること。
GTDに対する指摘の内容の分類
簡単に、自分自身が前から思っていた部分と友人の指摘と上記記事から読み取れるGTDに関する指摘部分を分類した。理論的か精神的かに大別されるような感じだ。
理論的な指摘
- GTDモデルが既存方法のモデルと比較しづらく差異が明確でない
- 時間的な可能性が小さい
精神的な指摘
- リストしたものが私の全ての人生だというのか?
- それほどまでにしたいようなことが人生に存在するのか? なかった場合はどうするのか?
- 水のような心を得られるのか?
- ファイルの整理のように、手段が目的化しがちだ。GTDもそうはならないのか?
これらの指摘についてちょっと考えてみる。
理論的な指摘について
理論的な指摘については、私自身も理解できる部分が大いにあるため問題なかった。
GTDモデルが既存方法のモデルと比較しづらく差異が明確でない
この既存モデルとの差異は前々からも自分自身がはっきりしたかったため、別記事にてまとめた。
時間的な可能性が小さい
具体的には週次レビュー等に時間をさくことが難しいであろうということ。
精神的な指摘について
問題だったのは精神的な指摘について。これらについては、GTDを理解されること自体がやはり難しい。
リストしたものが私の人生の全てだというのか?
友人はこれについて同意した。
「1.収集」にて自分の頭の中を収集する部分で友人が抵抗を感じるように見受けたが、この時の抵抗というのは二つ類似したものを見たことがある。一つ目はゴミ部屋の住人が脱出することに抵抗する時、二つ目は内観療法を実施する際に抵抗する時。 これらの共通する部分は、何かを明らかにしたくない場合である。まわりに混沌をつくり、何かへ到達するまでの壁を作ることによって防御している。その明らかにしたくないことは、ある問題であったり、自分自身だったりする。記事からも同じ印象を幾ばくか感じた。 私は反対に、不明瞭なこれからの希望ややるべきことがはっきりするであろうと思ったため、「1.収集」については特に抵抗を感じなかった。
「1.収集」に書き出される内容には実行可能とは思えない内容ももちろんあるだろう。宝くじをあてる、世界一周をする、好きな俳優に会う、結婚する、遺書を書く、宇宙旅行する、社長になる、本を出版する、シンプリシティの時計がほしい、等々いったいどうやったらこれらの目的を可能にできるかさっぱりわからないものも「収集」した中には入ってくる。 これらは私の人生の全てだとはいわないが、私の人生の一部であることは確かだろう。しかしながらこれが私の人生のすべてということにはならない。これらのデータは週次レビューで更新をかけるため増えたり減ったりするが、友人はその運用自体が不可能だろうと一蹴した。
それほどまでにしたいようなことが人生に存在するのか? なかった場合はどうするのか?
友人はこれに同意した。私は、なかったらなかったでよいと思っている。これからそんなしたくなることを実行できるスペース作りのようなものであるが、あまり説明しても友人には理解されなかった。
水のような心を得られるのか?
水のような心というのは、「プロマネはタスクを持っちゃいかん、何かあった場合に即刻対応できる体制にしておけ」ということと同一だと思っている。
ファイルの整理のように、手段が目的化しがちだ。GTDもそうはならないのか?
手段が目的化しがちなのは、目的が見失いがちだからだろう。GTDを本来の方式で行うのであれば、目的のあるレイヤにて把握をしようとするのでならないとは思う。
中間報告
今回GTDについて指摘した友人についてだが、仕事では有用であると理解の半分は得られたが、私生活で不可能だと理解の半分は得られなかった。 これ以上議論しても、友人と私との間では衝突して損益であるため、二人の間ではGTDについては議論を交わさないことに決定した。私生活では必要ないといわれたことは残念だ。とはいえ、友人が不必要だというにはいくつかの友人の特性も関わってくるように思う。
私自身は至極物を覚えようとしない人間であり、必要なことは覚えているが、不必要なことについては覚えようとしない。また、何かしらのヒントから得られるものについてもやはり覚えようとはしなかった。そのため、覚えておくべきことの取りこぼしがいくつか生じ、何かもっと楽にできる方法はないのかと思っている所だった。そのため、全データをアウトソース化するGTDは非常に理の合ったやり方であるため、私自身は理論の存在自体には問題を感じなかった。 一方、友人は物覚えがかなりいい方だ。どれぐらいいいかというと、今はそれほどではなくなったというが、本の内容をページの状態で覚えられたり、小さいころの出来事を鮮明に覚えていたり、といった具合に記憶の引き出しが非常に強い。そのため、私生活のレベルの備忘録については、友人の頭の中で十分処理しきれるのかもしれない。GTDは週次レビューが不可能だろうと思ったことも含めて、私生活では不必要だと友人は判断したようにも思える。 とはいえ、よくよく話を聞いてみると、年単位で行いたいことはスケジュールに書いていたり、そのほかのことは細かくスケジュール帳に記述していたりするので、友人はGTDらしい習慣は既に身に着けているようであった。
友人の指摘に関する対応策
友人がGTDが不必要であるというところは、友人の習慣がGTDらしすぎるということでひとまず私は理解した。だが、友人と比べて私には、そのようなスケジュール方法などの習慣がないため、習慣化するためにも私生活でもGTDを導入を続行する。その前には一旦友人の指摘部分を自分なりに消化する必要があるので、今のタイミングで実施する。
友人から指摘されたのは、以下の3点である。矢印に自分なりの解決策を書いた。
- 週次レビューを行う時間がないこと → ブログを書いている余裕があるので時間がないことはない。
- 実行するのに時間はないこと。せいぜい自分にできるのは自分に思いついた一番最初の事柄を行うぐらいだけであること → 今は何を行いたいかという選択時間もできない。現在はチョイスするための地盤作りと考えている。
- 実行するには制約があること。身体的及び精神的疲弊とコスト=お金があること → このうち精神的疲労に関する解決策。GTDでレビューし、実行時の思考時間を短縮し、頭を使いたくない所に頭を使いたくないようにしていく。
事後感想
- 内観をする程には抵抗はないと感じた。内観の詳細については内観のススメを参照のこと。
- GTDに近いスケジューリングサイクルを持つ友人はいったいどこで身に着けたスキルなのか。。