GTDを通じて無意識はどうしても無視できないものとなりつつある。というか、むしろ無視できないというか、やっぱりばったり出会ってしまったね、という感じ。
自分がどんな風になしとげたいとか、どんな風になりたいかは、無意識にお伺いを立てないとわからないし、自分を極めて快適な状態に保つためにはやっぱり無意識が嫌がるものを前もって取り除かなければならない、つまりゴミだとか。 それ以外にも、無意識とは折り合いをつけていかねばなるまい。例えば、理解。私が理解をするのは、意識がだろう、と思っていたけれども、無意識が理解してこそ、意識の理解は確定する。残念ながら、優位性は無意識の方にあって、無意識が理解を確立しなければ、意識はそれを情報として再利用することはできない。その最たる例が言語を習得することだ。 言語の習得をするために作業をするのは意識であるが、意識が「習得した」と言ったとしても、それは全くもって出鱈目であることは明白である。意識の言語を習得しようとがんばった経過は、確かに無意識の言語を習得する結果に繋がるものであるが、意識からして見れば何か手柄を取られた気がしてならない。しかしながら、無意識が言語を習得しない限りには、「私」というものは真の意味で言語を会得した、とは言えない。 理解だけではない、無意識には集中する上でも登場してもらわなくてはならない。言語の習得同様、無意識はここでもでしゃばる。しかしながら、集中こそが無意識の独断場であり、意識はむしろ乖離されるべき存在なのである、そして無意識は状況を最適化することで、その場で一番有益に行動できるように体中の全神経を支配下に置く。とはいえ、それが可能にするには、習得、蓄積されるデータ量、及びデータの流動的データ――つまるところの経験値が必要である。じゃあそれを誰がもたらせるのか? 意識である。
GTDをするにつれて、コントロールするどころかもっと大きな存在がいることに気づく。GTDは寧ろ、意識である「わたし」と無意識である「わたしでない私」との折り合いをつけるもののような気さえする。
「わたし」と「わたしでない私」が共通しているのは、データを蓄積する脳と使用できる考え方や機能である。でも残念なことに、使うものは同じでありながら、「わたしでない私」の方が断然使い方が巧い。鼻持ちならないが、曲げようのない事実でもある。
でも「わたしでない私」は随分偏屈で、気が向いた時にしか表舞台に出てこない。だから、どうやってステージに引きずり出すか、いかに奴を引きずり出しやすくするのかが今後の課題となってくる。
「わたしでない私」にはもう一つの利点もある。それは、燃費がいいことだ。