一緒に住むと、必ず同じのを使うものがある。それはトイレ。
パニック障害で外に出られないニートな兄、一人家から出てプラモデル作りにいそしむオタクな研究員の弟、小生意気な口ばかりが達者な大学生の妹、日本から母親がつれてきた口きかぬバーチャン、そしてネコのセンセー。
映画「トイレット」は、そんなちぐはぐな4人が、小さな出来事を重ね合わせて、最後には心を通わせるという話だ。
食事といった、生活のいつもの活動
荻上直子の映画でキーワードになるのは、食事だ。かもめ食堂では食堂が、めがねでもやはり風来の食堂があった。
今回の映画でも対照的に描かれている。
できあいのものを買ってきて食べた食事と、4人で作った餃子を囲んで食べる食事。
同じ食事だというのに、まるで雰囲気が異なる。
思うに、かけ違ったボタンがもう一度そろうためには、大きなことではなく、食事のような、生活のいつもの活動からすり合わせられるものだと示しているようにも見える。
現に、弟がバーチャンを気にするようになったのは、家に戻って生活をするようになってからだ。近くにいなければ、大した出来事だって起こりはしない。
兄とピアノと非・常識
この中で私が印象的だったのは兄だ。兄は随分なピアノの弾き手だった。しかし、昔エラいことがあって、それでピアノが弾けなくなり、そしてパニック障害を併発した。
そんな彼が、家から見つけたミシンをきっかけに、今の状態から変わっていく。そして彼が手にしたのは、ピアノ、それからミシンで作ったスカートだ。
スカートは、兄の何かを変えたツールのように、私はうつった。男が、スカートをはくなど非常識だ。しかし、彼はスカートをはいたことで、思い出すのである。
「欲求に理由を求めるのは無意味だ」
と。
ただ受け入れる
兄にとっての欲求とは、ピアノであり、自分で縫ったスカートをはくことであった。兄にとって、スカートがどのようなものなのかなど、到底わからぬことである。理由など知らない。
そう、理由。
私たちは、よく理由をほしがる。
それをする理由を、続ける理由を、存在する理由を、ここにいる理由を、生きている理由を。
パニック障害で働くこともできなかった兄は、自分の生きている理由のなさに打ちのめされていた。
けれども、スカートが、その理由のなさを打ち破った。
思えば、私も、この衝動と理由づけを繰り返し思うような、ヤマアラシのようなジレンマによく陥っている。丁度、この映画をみる前の日にもそんな詮無いことを考えてうだっていたところだ。
本屋に行って、あまりの本達の自己主張にうんざりして、じゃあ自分はどうなんだ、ブログも自己主張しているじゃないか、そういえば昔明らかにして書いたこともあったな、けどまた再定義しなくちゃわからんくなってたとかなんとか。
そんな衝動と理由づけのあわなさ加減は、人生に山と谷があるように、やってくるものだ。兄のことでなくとも、弟や妹の状況も、そんな風に思っていた時期が人生の中にあるだろう。
とはいっても、彼らの状況は、しんしんと進むばかりだ。褒めもせず、肯定もせず、しかし、非難もせず、否定もせず、ただ在るということを受け入れられる。
バーチャンはただそれを見守っている。
言葉なき包容
たとえば、私は今「トイレット」について文章を書いているのだけれども、その衝動を何かといわれれば、言葉で説明のしようがない。
仮に、言葉で説明したところで、それはその衝動の一部しか表さないものであって、言葉足らずもいいところである。
バーチャンが発した言葉など、今のこの文章と比べればほんの数言だ。けれども、その動き、存在、そこからみる包容に圧倒されるのである。
バーチャンが発したのは、ただに、言葉ではなく、行動だった。
終わった後は水に流しておしまいよ
結局のところ、私は映画の何がよかったのか、言うのをはばかられた。そう言えば格好いいかもしれないが、実際のところ、言葉では掴みとることができなかったのである。
そんなことより、私が何かを言うより、あなたが映画に行って見た方がいい。トイレットはそんな映画だ。
理由なんていらない。
見たいから。
行動するのに、たったそれだけでいい。
余談:130と3000
ところで、これから見に行こうと思った人は、二つの数字にも注目してほしい。とりわけ、その1は何か。4ではどうしてないのか。
さらに余談:センセーがかわいすぎるので、猫マニアは行って損はない
猫のセンセーは凶悪的にかわいすぎるので、猫マニアな人は是非とも行ってほしい。まじでかわいいから!