キリコは本とは男でアキヒトは本とは女だったという話。
この本を異様に気になったのはネットでジェンダーを偽る行為であるのと、ネットで別人として振舞う行為の末にどうなるのかがとても気になったからだ。
現実の世界では、女は女として振舞うことを要求され、男は男として振舞うことを要求され、それをとても窮屈であると思っている人がいる。それを別の次元では全く別の人間として振舞うことで、本来の役割からフリーになろうとしている。
実際話を読んでみると、そんなうまい具合に人材配置はいないよといいたくなるぐらいの羨ましいキャラ配置だ。とはいえ、それを上回る好奇心と期待を感じずにはいられなかった。
まず気になったのは、二人がどのようにリアルで会うのかどうか。どんな風にしてネットとリアルを交わらせるのか興味があった。これは二人とも代役を立てて会うことにした。
次に気になったのは、擬似人格としてのキリコとアキヒトをどういう風に始末をつけるのか。これは、そのまま生かせることでダブル付き合いという風な方向に収まっている。でも形はどうあれ、これって多重人格の亜種のような気もする。名前をつけて人格化しているけれども、本来は二人本人に備わっている一部だろう。この後二人がどのようにすったもんだを繰り返すのかはちょっと気になることだけども流石にそこまでは続いていない。
自分が男性としてネットで振舞うのかどうか、ちょっと考えてみた。しかしそれはなさそうだ。似た試みは今までもあって、名前を使い分けることによって人格を分化して扱ってみようとしたことはある。けれども、区別した時の違和感たるや大変なものであって、結局今使っている名前は本名と本名にちかいハンドルの二つだった。
ともかく、私はこれ以上を自分を分化する必要もないし、したいとも思ってもいない。自分自身をもっと自由に扱いたいとは思うが、昔のような窮屈さはない。寧ろ私は、二十歳になる前の方がとても窮屈だった。
この本が、皆を満足させるのは何だろう? あるがままの自分を振舞えるという状態なのかな? そして自分自身の真摯な気持ちを受け止めてくれる誰かがいるということかな?
本を満足させる要因としては、疑似体験することによって、脳にある欲望を満たすことだ。
それほど今の自分が窮屈だと思っている人が多いのかな?