私のブログは、見ている人がいるから続けていられることを、私は重々承知している。しかし、実際何か記事を書く場合に、それを意識すると、うまく書けなくなる。その意識の違いに、私は気鬱することがある。
ハーバードビジネスレビューでこういう記事があった。会社は顧客至上主義でなければならない、と。株式至上主義になってしまうと、その場その場での最大効果を狙うが、それ自体は全体の流れを考えた上で行うわけではなく、全体最適化という面では効果をなさないからである。
ブログも同じように、最終的な結果を受け取るブログを見る人を知りつつも、間近なもの、つまり私自身を満たす必要があるのだ。
ということに今思い至った。
さて、これで日記を書くときに読者のことを思い至らないという杞憂は、自分自身という読者を思い至ることで内包する、ということで決着がつき、その懸念事項は解放された。
としても、どういった興味で、RSSを登録しているのか、というのはいつも不思議に感じるものだ。
私がブログを書く理由
そこで、私は自分自身のブログを書く理由を考えてみた。 私も一読者なのだから、その自分が満足する理由が他の人の満足する理由も含まれているのではないかと思ったからだ。
私の書く理由は簡単だ。何か、あれ?と思い至り、その理由を考える、そして自分なりの結論を出す。そしてそれをブログに書いているだけである。
そして、そこに何らかの意図、つまり大局的な目的や目標のラインに乗せようとすると、一気にやる気がうせる。何度かそのようなラインを作っては見るもののそれはうまくいかない。しかしながら、記事を書いた後に、そういう線を引くことは問題ないことには気づいた。
私のブログの記事にはそのような特性がある。まとまりがない。私だって思うというか、私がそのまとまれないということにほとほと疲れている。
が、疲れるのも飽きたので、これを受け入れた。つまり、このブログは、そういった考えを収集するといった思考のInboxだ、と考えることにしたのである。
なるほど、Inboxならば、まとまりがないのも当然である。
しかしと思う。
そんなまとまりのない中でも、何が気になって、RSS登録をするのだろうか。
さらに自分の記事を書くときの理由を考えてみた。
まず役に立つと思ったことは書かない。本気で便利で、どうしてみんなが知らないのか口惜しい!と思ったら書く。本当に便利、ものすごく便利!と長期間思った時に書く。また、何かした、行動した、だけも特に書く理由がないので書かない。
かわりに書くのは、面白い、感じたこと、心揺れたこと、不思議に思ったこと、心を奮わされたこと、揺るがしたこと、衝撃的だったこと、アハ体験、ユーリカ、わくわくと思ったこと、ドキドキしたこと、血湧き肉躍ること、エキサイティングでどうそれがエキサイティングなのかを解説したくなったこと、などなどなどである。
要するに、記事を書くのは、心が動いた差分があり、その差分はどういうことだろうかと自分で解説を試みる場合だ。自分のことながら、自分で説明がつくことに歓喜を感じずにはいられない。
もう一つ理由があった。
人をそそのかしたり口説いたりするのが好きなんだった。
この前、台湾に旅行をして、あまりのうれしさに絵日記ぽいものを作った。それを会社の人に見せたら、気に入ってくれて、「今度台湾旅行にすることにしました!」とまでになった。海外旅行がしたことがない人が、である!!
この、他人の衝動を書きたてたり、心をかき乱したり、自分が味わったであろうその感触を人に感染させること、誰かの心を活性化させることこそ、私が外部に向けて書くことの原動力にもなっている。
もし、私のブログを読む理由が、何か揺さぶられることがあるからならば、これ以上なくうれしいことだろう。
私のブログの方針
ずっと、何度も、ブログの方針、ひいては自分の人生の方針を探している。今いえることは、昔わくわくとドキドキに満ち満ちていた歓喜の、プレイフルな世界を実現しながら人生を過ごすことである。
願わくば、周りがそのように自分で見つけたプレイフルに満ち満ちた世界が広がればと思う。
私のプレイフルが他の人のプレイフルと同じものだとは思わない。それでも、その歓喜は分かち合うことができるだろう。
世界はいつも謎とプレイフルに満ち満ちている。自分に正直で誠実に。人と異にすることの勇気を、孤独を、そして冒険を。