最近カウントしようよ、という話がよく出てくる。ものは試しとし始めてみるのだが、どうにも性に合わない。だからといって、自分自身が計測しないわけではなく、何かしらどうにも頭をウンと下げることができないことがあるのだと最近気づいた。
理解できる計測と、ざわざわ違和感の感じる計測
例えば、理解できる計測とはこんなものがある。
- 自分はどれだけ費やしたのかという、現状を確認するための計測
- 自分はどれだけやったのかという、現状を確認しやった感を感じるための計測
しかし、これだけはどうにも心のうちがざわざわとし始めるのである。
- 自分はどれだけ費やしたことによって、目標値に達したのかというための計測
これは、目標は計測可能な数値を設定するという話からそれるようにも思われる。しかし本当だろうか?
違和感の計測は結果としてなった数値ではなく、努力した数値を目標達成の評価値とすること
自分が、設定をする時に、絶対にやる気が起きないタイプの計測がある。それが、見出しの計測値である。
これは、製品1000個のうち完成した製品個数がどれぐらいかを計測値とするのではなく、製品1000個を費やすのにどれぐらいの時間を費やしたのかを計測値とするようなものである。英語で1000時間勉強して英語がペラペーラになることを目標にするのが、最たる例だ。
もちろん、1000時間費やして英語がペラペーラになる人もいるだろう。しかしそれは、費やした時間の中身によって異なる。
この中身によって結果が異なるのに、それを目標を達成した計測値として取り扱うのがどうにもいけすかんのだ。その目標達成ができたからといって、目的を満たすわけではないと知ってるだけに。
目標は、目的を達成するための具体的なゴールを用意する。しかし上記の設定では、目的を達成できない可能性がある。だから、その目標に同意することが、私には首肯しかねる。だって、それで目的が達成できると確信できないのに、どうして納得することができようか。これが、私のある計測に対する違和感の正体だろう。
それでも努力した数値を目標達成の評価値とする理由
この違和感理解しつつも、それでも努力した時間を目標値に捧げるのも理解できる。必ずしもではないが、実際に目標達成する場合もあるからだ。また、必要最低限の時間は、やっぱり必要だからだ。
そして、その目標達成したとみなす何かは、必ず計測時間以外の何かしらである。これは間違いない。
自分コメント:
- どうして盲目的に実行できないんだろうかという嘆き