世界が不愉快になる瞬間
世界が不愉快になるのは至極当然なのである。私たちはその不愉快さで生命を維持し続けられた。不愉快は不安定でもあり、不安定はそこにエネルギーが偏っていることでもある。そしてエネルギーが偏っていることイコール生きていることである。赤ん坊は泣くことで不愉快さを取り除くように、周りに働きかけてきた。危機感や不安感などの不愉快さで、私たちは難を逃れることができた。
生命維持には不愉快も時には必要である。しかし、その一方で、不必要に不愉快ている場合もある。
例えば、「世界がなくなったらどうしよう?」。
私もこのような不安に駆られたことがある。しかし、帰来の面倒くささから、考えること自体が面倒くさくあほらしくなってやめてしまった。
経験的に言えるのは、その不安に対してできることは、不安を感じていることに対して、なんらかの対策を取ることのみである。
例えば、上記のような場合は、以下のような考え方ができる。
世界がなくなったらどうしよう? →世界がなくなったら自分はどうなるんだろう? →世界がなくなったら自分の好きなことができない →だったら今がんばって自分の好きなことをしよう! →精一杯今を生きよう!<これが対策
ぶっちゃけ論理的には「えーー?!」と思うことかもしれないが、自分の中ではそれが正しくなるのだから、あんまり気にしなくてよい。それでも不安になるのならどうしたらいいのか?
不安や恐怖や何がしか。そういったものの感情が続く時は、そのものが、具体的に説明できなかったり、時間的にどこで終わりがわからなかったりする。特に私は終わりのなさ加減には非常に嫌悪感がある。ずっと続くゲームが途中で嫌になるのは、連続パターン化し、それがメビウスの輪のように終わりがなくなる瞬間だ。反意的ではあるが、ゲームはその不愉快が愉快だ。その不愉快な愉快がなくなれば、ゲームのする意味がなくなる。
私がGTDを続けているのは、世界を上述の通りに思っていることが起因する。
実に世界は不愉快である。
しなければならないことはごまんとあるが、それに対して私はすること事態に不満がある。なぜそれをせねばならぬのか、それから解放されたい。
しかし一時的な解放はあっても、永続的には続かない。そしてまた何かしらの原因でまた思い始めるのである。
実に世界は不愉快である。
黒猫が前を通り過ぎた。いつも引いている線がまっすぐに引けなかった――そんなささいなことですら、私の世界は不愉快になる。一体この不愉快さをどうやっておいやるべきか。完全に不可能ならずとも、最低限の時間で済むためにはどうしたらいいのか――その実現方法について考えてきた。