今私は仕事をしていて、時たま旅行に行ったりしてワクワクドキドキするようなことを時たま実行している。
仕事は好きだ。けれども、ヒマすぎるのも勘弁だし、忙しすぎるのもそれはどうかとも思う。
仕事は好きだ。でもかりそめだ。一時的なものだ。私がこれだけに殉ずることができるとは、私自身が到底思ってない。
本当にしたいことって何だろう?
本当にしたいことって何だろう?
今の私の回答は、プレイフルなことだ。
GTD勉強会をやってて、ものすごく皆が「わかった!」という瞬間が重なったことがある。これが一つのプレイフル。
最近キャニオニングに行った。ひさびさの川で、結構な高さから飛び込んだり、前身つんのめりでスライダーをやったりして、ひっじょーにドキドキワクワクした。これも一つのプレイフル。
私自身が心躍ったり、みんなの感覚が新しい何かにつなぎ合うことも好きだ。
プレイフルなことは、GTDを通じて、ようやく見つかった、私のしたいことだ。
しかし、プレイフルなことを見つけるまでには随分かかったし、壁もあった。
したいことまでの一つめの壁
壁は大きく二つあった。
まず一つ、何が自分にとって好物だと感じるようなことなのか。
今私はプレイフルだと言っているけれども、これをもうちょっと共通化すると、自分にとって非常に楽しいもの、好物である、ということ。
それは自分が見つけるべき、決めるべきものであって、誰かに与えられるものではないこと。
このプレイフル、まぁ要するには自分の好物を見つけるのに時間がかかったこと。
自分の特技と同じように、自分が好きな好物というのもまた難しい。途中はこれだ!と確信に近く思うんだけれども、突き詰めていくとまだその奥には違う何かが潜んでいることがある。
例えば、私はGTDが好きだから、GTDを伝えるのが好きだろうと思ったし、そこに殉じることが源かとも思った。しかしそうじゃなく、プレイフルだった。
まずはこの好物を見つけるのが難しい。
したいことまでの二つめの壁
次に一つ、それが好物だと自分で認めること。
人間の行動の中で不可思議だと思うのは、「認める」というあまりに抽象的な行動が、精神的にも身体的にも大きく影響を受けることだ。
認めることは、身体にある流れの関所のいくつかを開放するようなもので、「認めない」というだけで、身体や精神に随分な抵抗が生じるのだ。
私は、プレイフルと見つけるのも時間がかかったし、それが自分の好物だと認めるのも時間がかかった。
認める内容には、ちょっと人には言えないようないやらしい部分や、明らかに認められるのが極少数だと思われるようなものが、どうしても入ってくるからだ。成人君主になれるとは思っていない、けれども自分の悪い部分を認めるのは、別問題だ。
ロバート・ハリスの人生100のリストを見てみる。
そこには、ちょっとそんなこと言っちゃっていいの?!と思うようなこともしばしばリストに書かれている。そう思いつつも、どうどうと言える様を私はうらやましくもあった。なぜなら、そこには自信があったからだ。
自分のしたいことに誠実があり、向き合う姿がそのリストにはあったからだ。はたして自分がこんなリストを作ることができるのだろうか? リストを作ったら、誰かに見せることなんて、できるのだろうか?
まずはこのリストを自分の目に触れさせることができること。
ここまでが大きな壁だ。
ここからまた壁は続くのだ。