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GTDメインのタスク管理と生息してますログを記載しています。

インタフェースが思考する分量を決める

iPhoneを使うようになって、ひしひしと感じているのはインタフェースによる無意識的な意識の制御だ。インタフェースによって、頭が振る舞いを変えようとする。例えばGmailを使う際がそれが顕著に出た。

 

GmailをウェブブラウザとiPhoneとで使うと

Gmailは今までウェブブラウザを経由して使っていた。その時は画面が広くて、返信したりするのに億劫だった。画面を開くのもそうだし、多少の時間のラグも面倒くさいという気持ちになって当然だと思うことを応援する始末だ。それがインタフェースが悪いとは言わないが、ウェブブラウザのGmailの画面は、私をして、億劫がらせるのである。

ところがiPhoneを使うようになって、GmailもiPhone経由で見るようになった。そうするとどうだろう、今まで面倒だった削除作業も、なぜかiPhoneは軽やかになる。

 

iPhoneは画面が小さい、その分、思考も小さい

iPhoneは画面が小さい、だから、思考をするのもそれに相応する分量で思考する。要するに決断が速いのだ。ウェブブラウザから見る手紙では、もうちょっと取っておこうという気持ちが、iPhoneではその気持ちをふんわりと置く場所がない。その結果、私はウェブブラウザ上で決断するよりも早く、iPhoneでは不要なメールを削除することができる。とても不思議である。

 

インタフェースが思考する分量を決める

昨今は携帯やスマートフォンが主流だ。twitterも流行っている。情報の粒度が小さく、そしてその流れは速い。ノイズの数は多く、ややもすれば何でもかんでもその情報から自分の形成させることは可能だ。媒体に合わせて思考もそれに合わさるものだ。理を合わせる合理的なように。

 

私は携帯やスマートフォン、そしてtwitterに関して何らかの危惧を感じる時がある。それは一体なんなのか、とかんがえると、この思考の粒度のはじけっぷりのような気がする。

GTDを始めたのも、この思考のはじけっぷりに我慢がならなかったというのがある。多量の情報がありながらも、それをうまく取りまとめられず、上下左右に引きちぎられ、あまりに自分の所在なさに。これらの媒体は、そういった、はじけていて、まとまりをこちらが考える必要のある情報を、提供しがちだ。流れるプールのように、それにたゆたうのもよいかもしれない。しかし、それらは流動的な情報体だ。この固の情報体に蓄積していくには、それで本当に十分なんだろうか。分断される思考で、十分に、深部に、深く、自分自身に関わることができるのだろうか、と。ふと、そんなことを思う。

 

思考にも錬成は必要だ。そのためには、外部からシャットダウンし、内部のソーシャル性を高める必要がある。そして、長期的スパンの思考を考えることは、この作業をできるかどうかが、深くかかわってくるように思う。