最近、といってももう1ヵ月半以上にもなるのだが、キャニオニングに行ってきた。キャニオニングとは、歩いて飛び込んでスライダーして、の気合の沢くだりのことを示す。 もともとラフティングとか川遊びは好きだったので、キャンプのアクティビティにメニューがあって、真っ先に飛びついた。
体験して身にしみたのは、筋肉痛…じゃなくて、現実世界の情報量の多さだった。
リスクを取る
最近の私のテーマは、リスクを取ることだ。
このテーマは、自分を信頼することから続いているテーマなんだけど、自分を信頼できるっていうのは、結局「こいつぁ危険だぜ!」という状況をどれだけ超えられたかで、その率が高まるのだと私は思っている。 なんで、積極的にリスクを取って、そういう自分を信頼できる要素を増やしていこうという魂胆だ。で、これが自信につながるはずだと。
そんなわけで、キャニオニングもリスクを取ることの一つ。。いや単にしたかったなんだけどさ。とりあえずは、そのキャニオニングでトライしなよ!と言われたものには進んで実行してみた。結構な高さからのジャンプとか、頭からスライダーとか、宙返りでジャンプとか、まぁ絶叫しながらも全部やってみた。
その時思ったのが、頭で処理する情報量の違いだった。
とある活動における情報量
ところで、携帯を新調して通信速度もよくなったものだから、ちょっと携帯ゲームに手を出してみた。が、すぐにやめてしまった。通信速度もさることながら、単位時間あたりの情報量の少なさも、更新頻度の小ささも、私の好きなゲームの情報分量ではないからやめてしまったのだ。そんなんで、携帯ゲームの客層が、コンシューマ系と全く異なるわけだと納得した。
携帯は、情報量の少なさにびっくりしたところで、キャニオニングは反対に情報量の多さにびっくりしたところだ。
キャニオニングで思ったのは、とにかく頭が処理しているとおぼしき情報量の半端ない違いだ。当然だ。情報対象は視覚聴覚等々に加えて、肌の全表面積から受け取る情報を対象としていて、ものすごくテンションを使っていることを感じた。それだけ、今自分のいる場所は通常の場所ではなく、注意をかける必要性があるからだ。
ところで、でっかいプロジェクトのマネージャになって、まわりが半端ないほどの情報量に対応できるのにびっくりした。私は全くその情報量についていけずに、オーバーフローしちゃったタイプなんだけど、昔の小さな積み重ねから見えない開きがあったんだなぁとびっくりした。
思い当たる節があるとすれば、運動だ。
私はからっきしの文科系で、部活動も全部文科系だった。キャニオニングのような全方向での注意を払うような状況はどんなものがあるのだろうと考えると、運動の競技や、遊びの中のゲームといったものがあるなと思った。
状況は刻一刻と変化するから、それに合わせて状況確認とそれに対する方針の更新が、短時間の間に高速で繰り返される。
私にそんな短時間勝負のようなことはあっただろうか? いやなかった。
それでもでかいことはしたい
プロジェクトのマネージャがうまくできなかったことは大きなネックだ。私自身の情報処理能力に、実は存外ものすごく処理許容量が少ないんじゃないかと疑い始めたのもそれが起因だった。いやいや、それは経験でなんとでもなる、そういう立場になればそうならざるを得ないから、とは言われるものの、なんというか心もとない。
上記のできなかったことについても考えたいことはあるのだが、それはさておいたとしても、私は何かでかいことがしたい。でかいことって何ですか?て言われると、なんだろうねといわれるんだけれども、多分でかいのがポイントではなく、面白いことであってプレイフルであるような何かだ。つまらないと言っているこそ、一番つまらないものだ。
とにかくでかいことはしたい。でかいことをしようと思うと、その分自分の度量というか、許容できる大きさの器が必要になると思う。その器が自分の信頼といったものかどうかはわからないが、大なり小なり、自分というものが地についた人たちであることは確かだろう。自分にそれがあるのか、というと全然ないように思った。しかしでかいことはしたい。したらばどうするか?
そんなわけで、リスクを取る経験数を、まず増やそうと思った。