経験の実装
経験と呼ばれているものを、私は身体の中でどのような実装をしているのか考えたところ、それはシナプス経路のあの経路なんではないかと思っている。
で、そのシナプス経路の有効範囲はどれぐらいのものだろうかと次に考えると、どうにもこれがものすごく狭いように思う。
上記の経験の有効範囲の考え方のもとは、心理学のあのルールにもとづく。400gと405gは区別できないけれども、400gと450gだと区別できる。400gと区別できるかどうかのグラム数が、この400gだとわかる有効範囲なんだと思う。
要素のなにが異なれば、その経験は別のシナプス経路を一部なり全部なり身体は用意する必要があるのだろう? これが考えてみるに思ったより小さい。
新しいトイレは怖い
ところで、トイレが怖いという友人がいる。その友人のトイレの利用は面白くて、いつも使っている一つのトイレにしか使わないという。トイレにも実績があるらしく、一度入ったトイレには実績があるから大丈夫なのだと言う。ちなみに何が証明された実績なのかというと、お化けがでない等だ。
そんな友人と旅行に行ったところ、友人がトイレに行きたいと言ったことが悲劇の始まりだった。今は自分たちの部屋からかなり離れた遠くの風呂場にきていて、夜はもう0時近い。トイレはもちろん近くにあるけれども友人にとっては一度も経験のないトイレばかりだ。結局私を連れだって、事なきをえた。
友人の奇妙な行動は不思議なものだった。まぁ人によってはそんなもんかと思っていたのだが、まてよと思った。
つまるところ、友人にとってはそのトイレに行った経験のシナプス経路のみが存在して、別のトイレに入る、というのはこれまた別のシナプス経路が必要な経験なのではないのか、と思ったのである。
新しい場所も、新しい物も、経験は異なる
場所が異なるだけで異なることは何もトイレに限ったことではない。物だって同じことが起こりうる。メモ帳が変わるだけで、使い勝手は変わってしまうし、服によっても気分が変わる。人の使っている自転車は使いにくい。私たちは気づいていないだけで、振る舞いがほんの少しずつ異なっているのだ。
私自身もこの振る舞いの違いにいつも振り回される。ノートは物によって、続けてかけるノートと全く書けないノートが存在するのだ。表紙がぺらぺらなノートが前にぜんぜん書き込むことができなかった。
このように、場所から始まり、小さな物によって、状況にあわせて私たちの経験はそれぞれ専用のシナプス経路があるのだと、私は少なくとも理解している。
経験は局所的
このように、経験は局所的である。やることは同じでも、要素が異なると、合わなくなることが多くなる。そして状況の移行は徐々に移りゆくものだから、状況が変わっていないと勘違いしがちだ。
世界は劇的に変わる場合もあれば、ゆるやかに変わる場合もある。
私たちは砂糖が400gから変わる瞬間に気づく必要があるのだ。
派生的な項目
・仕事術がいまいち合わなくなることがあること ・集中するための儀式
自分コメント
- 初出 2010/03/30