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極上たるもの、あまりに自然に存在していて、するりと日常に紛れ込む

indica and japonica rice Creative Commons License photo credit: atem_y_zeit

家から時たま米が送られてくる。この米は、農家が家用に作っている、ちょっとそこらでは買えない代物だ。家用なんで、おいしく作られているらしい。たまたま母が、農家をやってる人の友人だったらしくて、格安で買っているのをもらっているのを実家から送ってもらっている。 その米にしてから、米の消費量が増えた。 その消費量が増えたとき、私は立て込んでいる時期で、帰るのも遅かった。よってご飯も軽いものになるわけだ。卵ご飯とか卵かけご飯とか。

食事の全体量は減ったものの、しかし米の消費量は止まらなかった。

私はその米についてとりたて高い印象はなかったし、そんなものかとも思っていた。何も感想が出てこない自分をちょっと不思議にも思ってはいた。が、行動は正直だ。おいしいので、米を食べる回数だけは増えている。

そういえばそうだった。私は食べ物については、無意識的にえり好みをしているらしい。らしいというのは、私にはあまり意識がないからだ。母親に言わせると「あんたは、おいしいもんだけパクパク食べて~」だそうである。

そんなん知らんがな。と思ったけれども、思い当たる節はある。中国茶店で、販促がてら、先に出された普通のお茶は然程飲んでいなかったのに、その後出されたたいそう高い茶葉の工夫茶は、ごくごく飲んでたなー、とか。おいしい明太子は率先して食べてたとかなー、とか。いまいちだと思った食事には、一口つけてそのあと手につけない、とかとか。

それはさておき、私が言いたかったのは、極上たるものとは、あまりに自然に存在していて、するりと日常に紛れ込みやすい、ということだ。だから、うっかり見過ごしてしまうと、それが極上たるものなのか見逃すことがある。

だからこそ、すんなり受けいられ、誰にも受け入れられやすい。そしてそれゆえに見逃しやすくもある。

世紀の大発明もあまりに馴染みすぎて、それが当然のようにも見えてくる。例えばそれは、フランクフルトにつく、ケチャップとマスタードが別々に入った容器のように。