この前見てきた「君たちはどう生きるか」についての余談。
細かいディテールはおいといて、今回はこの話のレイヤー構造と、神話というか普遍性に向けた話、それから歌舞伎の綯交ぜが取り入れられている点について話したい。
最初の疑問は白濁の液
なぜこんな話を考えるようになったきっかけは、作中にあった白濁の液だった。一つはアオサギが主人公の家の窓の残りにつけていたことと、それから最後現代に戻ってきた主人公、ナツコ、父の3人に白濁がついていたことだった。
アオサギの時点ではなんだか気味が悪いなぁというだけだったが、最後の人物達にわざわざわかりやすくつけていた。インコがいるからインコのフンのように見えざるを得ない。だが、見せ方があからさまであるから、大きな印であることは確かだろうと思った。
イザナギとイザナミの神話
大きな印といえば、イザナギとイザナミを神話を思い出したのもわかりやすく印があった。「後ろを向いてはいけないよ」という点だ。
このフリは、異世界と現代からの切り離すためによく使われるおまじないでもある。だが、「死んだ女を連れ戻す」という話の作りから、イザナギとイザナミの神話を組み込んでいるであろうというのは推察できる。
今回、「死んだ女」は主人公の母親だが、火事でなくなっている。イザナミもまた、ヒノカグツチを産み落とした時に亡くなったという点でも類似性がある。
だが、ここには白い液体の話は出てこない。
ならば別の神話なのだろうか。
白い液体で有名なのは、エジプト神話
白い液体で有名なのはエジプト神話である。私はエジプト神話が好きなので、割かし神話の本を図書館で借りては読んでいた。
そこで出てきたのがレタスである。レタスは、その切った部分から白い液体が出てきて、これが、精力増進効果があると信じられていたとも言われる。で、このレタスはエジプト神話のミン神の供物として有名だ。ちなみに、ミンは豊穣の神で、見ればわかるが、その姿から子孫繁栄を象徴するともされていた。白い液体が何を連想するかは、自明である。
しかし、日本神話はわかるが、いきなりエジプト神話が組み込んでくることは奇妙である。奇妙であるとは言ってても、ところがアオサギはエジプト神話になじみがある。
ベンヌは、エジプト神話に伝わる不死の霊鳥だ。そして、そのモチーフとなったというのがアオサギである。実際その姿には二枚の青い羽根がある。
どうやら、確かに、日本神話以外に、この映画はエジプト神話の要素もあることに確信はもてた。
もてたが、なぜエジプト神話なのだろうか?という謎があった。そして、なぜ神話を二つも持ってくる必要性があるのかがわからなかった。
神話の要素を入れるのは、普遍性のため
今回、イザナギとイザナミの話を思い出したので、最初、とても神話っぽく思った。
だが、どちらかといえば、話を普遍性に持たせるために、神話という型を取り込んだのではないのかと思った。
神話の類型であれば、それになぞるように覚えやすい。また、神話の類似とすれば、話の訳の分からなさも多少の合理性は不要になってくるし、むしろ不合理さが必要となる。
この不合理さの企みはおそらく成功しているように思われる。この物語は、すんなり理解されることを拒み、いろんな人の中で、よく考察され、記憶の中でながらく滞留しているからだ。
あそこはどうなんだ? あれはどういう意味? などなど検討せざるを得ないような状況になって、結果印象に残る。
物語に普遍性をほしかったのは、物語が長く存命されること、いろんな観点から読み取られてほしいこと、という2点が実現できるからかなと思っている。いろんな観点から読み取られたいというのは、前回の感想の通りである。
ふーん、だからイザナギとイザナミの神話の類型を作ったのか――だが、エジプト神話を取り入れる理由はこれだけでは足りないのである。
そこでふと思い出したのが、歌舞伎狂言の「綯交ぜ」である。
歌舞伎狂言の「綯交ぜ」を取り入れた世界
「綯交ぜ」とは歌舞伎の作劇法のことで、二つ以上の異なる〈世界〉の筋をからみ合わせて一つの狂言を作ることだ。「綯交ぜ」についてはこちらのリンクの説明がわかりやすい。
ポイントは、「筋をからみ合わせる」ことである。今回の物語は、通常の主人公の話を進みながらも、イザナギとイザナミの神話のような話の筋を取り込んだ形をしている。これが「綯交ぜ」である。
別に、イザナギとイザナミの神話を知らなくても、当初の物語は完結しているので、別に問題はない。ただ、見る側が神話を知っているか知っていないかで、別の側面が見えてくるという面白さがある。
今回、この物語に「イザナギとイザナミの神話」を綯交ぜしたと言えば説明がしやすい。そうすると、ここに「エジプト神話」の世界を「綯交ぜ」したと考えれば、とてもわかりやすくなる。
物語のレイヤー構成
さて。この物語がとてもよく語られるのには、いろんな側面から読み取れることができるからだ。側面をレイヤーとして考えると、今回の物語には、以下のようなレイヤーが考えられる。
レイヤー1、主人公の物語
これは、本来一番表面にある物語である。どうしてアオサギなの、結局空からふってきたアレは何なの? 謎はあまりに多い。
レイヤー2、宮崎駿の物語
レイヤー1から照らし合わせた、宮崎駿の物語である。主人公は宮崎駿で、アオサギは誰それさん、と見る側が勝手に妄想を膨らませてくれる。
レイヤー3、見る側の物語
レイヤー1の主人公に照らし合わせて、自分と共感を得る。そのため、主人公やその周りにはいろんなひっかかりがちりばめられている。そして、占いのように、自分が一番注目したい部分が注目されて、自分自身の物語のように受け止められる。
この物語の感想は、おおよそこの3つのうちどれかについて語られているようだ。前回の私の感想は、レイヤー3が多用できるように作られているのねこの話は、という感想であった。
で、今回この記事で紹介したいレイヤーは以下の二つだ。
レイヤー4、日本神話と、レイヤー5、エジプト神話の物語
今回、この物語ではなぜイザナギとイザナミの神話だけでは足りず、エジプト神話の組み込みを必要としたのか。
それにはまず、イザナギとイザナミの神話の内容について振り返らなければならない。
イザナギとイザナミの神話は、死の物語
イザナギとイザナミの神話は、イザナミが亡くなって、イザナギがイザナミを連れ戻そうとしたが逃げた話である。
今回の物語では、イザナミは主人公の母親で、イザナギの役回りをしているのが主人公となる。結論から言えば、イザナギの役回りだった主人公はイザナミを連れて帰らないと決めている。
イザナギである主人公は、イザナミに追いかけられもせず、あまつさえ、ナツコを連れて戻っている。
イザナギとイザナミの神話は、若干話がスライドされ、別の話へと書替えされている。
エジプト神話は、生の世界
残念ながら、エジプト神話に似合った物語は私は覚えていなかった。ただ、いろいろなパーツから思い出すエジプト神は、生殖・豊穣の神ミン神、そしてイメージは一つしかなかった。
それは、「生」である。
数あるエジプト神の中でもミン神でなくてはいけなかったのかはあとで話すとして、ミン神を思い出せるもののモチーフは、物語でも随所に現れていた。
ミン神が、この物語に関わっていないけど関わっているというのは、ミン神に関係するパーツがいくつか出てきた。「鞭」「包帯」「白い液」あたりである。
「鞭」は異世界で、キリコが武器として持っていた。ミン神も鞭を手に掲げている。
「包帯」は、産屋で出てきた。産屋でナツコと主人公は、白い紙というか途中から包帯のようなものに覆われていた。あれは、今思えばミン神のパーツの一つなのかもしれない。ミン神の足元はミイラの白い布で覆われている。
「白い液」。ちょうど主人公たちが現代に戻ってきた時、大量のインコにあふれかえっていた。あそこのタイミングで見る限りには、インコのフンではあるが、実際表したいのは別のものである。これがなんでミン神と関係するのかっていうと、ミン神の供物はレタスで、レタスがなんで供物かというと、レタスを切ると白い液が出てきて、それが滋養強壮によいと思われていたからだ。ちなみにミン神は生殖の神である。何を表しているかは自明だろう。
それからベンヌ。アオサギがモチーフとされるこの鳥は、不死の霊鳥とされているし、またフェニックスのモデルともされている。あの不思議な世界から戻ってくる相棒としては全く適した役どころである。
イザナギとイザナミの神話では、不思議な世界からの戻り道は黄泉からの戻り道である。その一方で、ナツコを産屋から連れだったという点で、生まれいずる道、つまり産道にもなっている。死から生を生み出し廻る道――これ以上の不死鳥にふさわしい道はないだろう。
異世界からの戻り道とは、黄泉からの戻り道でもあり、産道でもある
ここが、私が気づいてとても興奮したところだ。
異世界からの戻り道だが、イザナギとイザナミの神話ならば黄泉からの戻り道の話になるが、今回はナツコを連れ立った話になり、それは一転して、エジプト神話の世界の話となって、その場合、この道は産道になる。
それは、ナツコが異世界にいた場所が産屋なんだから産道しかない。
ここでようやく、エジプト神話の印を持ってきた意味がわかる。エジプト神話は、死としてのイザナギとイザナミの神話の対比として生のモチーフ、生殖のイメージとして描かれている。
この表現こそが、全く異なるイメージを融合させ、同じ時間軸で実現しており、まさに歌舞伎が取り入れていた「綯交ぜ」が実現された状態なんじゃないかと、私は思っている。
そしてそれは、「生命は廻る」というに相応しい表現である。
インコは何なのと言えば、産道から出た後のインコはあの色鮮やかさは生まれてきたことの祝福を表しているのだと、私はそう思った。
しかし実際意図されたものかはわからない
とはいえ、日本神話はともかくエジプトのミン神は特定するには少ないパーツなので、まぁ実際は違う可能性も高い。けれども、こういう風に考えると、二つの神話を取り入れることで、死と生を一緒くたに表現している、ということが説明できるし、アオサギがこの物語を一貫して出しゃばる必然性も理解できる。
いずれにせよ、私がこの映画を見て思ったのは、監督が生命の廻りというものを祝福していることだ。
そう、祝福なのである。
とりあえず、この映画の私の解釈は、これで落ち着いたかなと思う。