works4Life

GTDメインのタスク管理と生息してますログを記載しています。

仕事や私事に追い詰められて陥る、硬直した状態について

現在私は忙しい。年末あたりからその嵐の波はやってきていが、ここ最近になって大嵐となった。12月から1月にかけて、私はおおよそ二つの種類の硬直状態を体感した。ひとつは執筆に関連して。もう一つは仕事に関連して。

今回は、どのようなレベルの硬直状態があるのか、そしてそれによる自分自身の状況とはどういうものかを記録することに焦点をおく。

というのも、このような状況は本当に内部からは理解しにくいからだ。例えば私は友人と住んでいるので、コーナー場外からタオルを投げてくれるが、一人だと正直いつ「ももうだめだ」というのがわかりにくい。そんなわけで、ちょっとばかし状況を共有できたら、一人でも感知ができるんじゃないのかなと思ったわけだ。

1.硬直状態のレベル

硬直状態は、レベルがある。

(1)危険 - 物理的作業にあぶれた状態。まだ心理的な余裕はある。 (2)致命的 - 物理的作業に溢れた状態。心理的にも余裕がなく、茫然自失。

硬直状態は、作業的レベル→心理的レベルに深刻度合いが増す。(1)はまだ客観的に自分の状況を見れたり、笑ったりすることができるが、(2)になると、笑うにしても表情がこわばっており、笑うことに違和感がある。何より、何を考えているかの感覚があるようでない。

ちなみに私は執筆に関して(1)を、仕事に関して(2)を体感した。

2.各硬直状態での身体的反応

ここでは体験した通りのことを記す。

(2ー1)危険状態での身体的反応

  • 上半身内臓が収縮する感じ
  • 肩が収縮する感じ
  • 全体的に倦怠感
  • 周りの状況の音や視界について、何かしなきゃと思うものの結局うまくできてない

(2ー2)致命的状態での身体的反応

  • 脳みそが収縮する感じ
  • 肩が収縮する感じ
  • 顔の表面が強ばった感じ
  • 全体的に倦怠感
  • ぼうっとしている
  • 周りの状況の音や視界を認識できるが認識するだけ
  • 顔のバランスの均衡がくずれる

途中で書いてて言うのもなんだけど、これは今回にしか適用できない。

GTDを始めるきっかけになった以前にも、同様の硬直状態を感じたことがあった。その時の状況は、この二つの状態がないまぜになった状態だからだ。 また、の私は二段階しかないが、もう少し他の人を洗い出すと、3段階以上の硬直状態があるかもしれない。つまり、人によって硬直状態の状況は分化しているかもしれない。

3.各硬直状態での心理的・思考反応

次、各状態での心理的・思考的な反応を記述しておく。といっても、渦中から離れてはしまったので、実際のところこのような状況なのか、真芯をついているとは言い難い。ただ、このような考え方に偏る、ということだけは言えるだろう。

(3ー1)危険状態での心理的・思考反応

周りの状況に反応して、何かしなきゃと駆り立てられるものの、行動するが、特に何も考えていないために、いまいち作業が終わらない。次の状況がでてきたら、それに反応するためそれ以前の仕事は放ったらかしになってしまい、結局何もおわっていない。

GTDで気になることを洗い出しすればよいという気持ちではある程度書き出すことは可能。

・洗い出せというけども、2時間も時間とってられるか

(3ー2)致命的状態での心理的・思考反応

何度も言うが、茫然自失。 これはどちらかというと、このときにあらわれ出た言葉を出力しておいた方がわかりやすいかもしれない。

  • 洗い出さなきゃ、でも何を洗い出せばいいの?
  • 洗い出さなきゃ、でも2時間。2時間?
  • まずはこれをやろう。これをやってから、次なんだっけ?
  • えーっと
  • あー、はい
  • とりあえず事務処理
  • それから・・・
  • なんとかしなきゃ
  • どこから手をつけたら
  • 洗い出すにも、どこから洗い出せばいいのかわからない
  • やんなきゃ

正直言って、このぐらいの言葉しか、そもそも出てこない。思考稼働率が極端に低下していた。

危険状態から致命的状態への心理遷移は、危険状態ならば、怒り・困惑・混乱などといった感情的な状態が非常に露わになる。一方、致命的状態は非常に逼迫しているため、そういった感情の回路か分離するようになって、虚脱した状態に変化する。これが大きな違いだろう。

感情の起伏がはげしい心理状態が何度も続くと、エネルギーが枯渇する。だから、更に致命的状態になると、感情面に使用していたエネルギーも現状維持に費やされて、その結果感情の起伏が少なくなるような気がする。現状維持とは何か。私の予想の一つでは、GTDで言うところのオープンループを保持するために使用している気がする。あれは、内部で決定がされない場合、極力保持しようという方針が流れているように思う。

4.硬直状態からの脱出方法

(1)の危険状態からの脱出方法は、GTDが適用できるかもしれない。1時間もしくは2時間程の問題となっている箇所に関して、突き詰めて不安要素を洗い出すので対応できる。しかし、この作業を信じてできる余裕はなく、そして周りもそれを許されるような環境にはなりえない。従って、強制的な状況に限り、GTDが対策として行われることは少ない。残念なことに、GTDが最大発揮されるタイミングは、このタイミングであるにもかかわらずである。

(2)の致命的状態は、(1)の危険状態から更に深刻である。(1)はまだ項目の洗い出しができる状態であるが、(2)になると茫然自失で正直対応している内容が、自分で対応できる範囲から越えている。外部から巻き取りなどの対応が必要なレベルだろう。

自分自身の限界

最近(2)を体験したわけだが、ある案件に対して担当になったが自分では対応できる範囲を越えていたため、その役割を辞退した。

今回の役割>自分が対応できる役割

ということだったが、上記方程式の判断となったポイントは以下の通り。

  • 案件の納期が短期であること
  • 案件の内容自体が複雑であること
  • その役割に対する私の実績が少なすぎること
  • 体力的な問題があること

これが、上部に説明する理由となった項目等である。そして個人的な限界に同意せざるを得なかった。

非常にかつ単純なことだ。私は、情報が過多になるとすぐにアップアップする。とにかく必要最低限の項目しか把握しないことから必要不必要以上の情報がやってくると、すぐに回らなくなる。

今までそれでもなんとかできたのは、自分が担当する周りについてだけ把握をし、それ以外は一切無視する方針を取っていたからだ。その範囲を今回の仕事ではかなり広げることになり、そして情報に溺れた。

こういった溺れる中でも、ある程度の方針や切り捨て等を行って、本来は進むべきなのかもしれない。しかし、できなかった。

私がストレスに感じる状況はかなり多い。人と会うだけでもすぐに体力が削がれる。場所を移動することでも疲弊する。そして情報過多という状況。GTDをやるようになって、ある程度対応できるようになったかと思ったけれども、自分自身の能力が延びるわけではないのだから、結局情報過多をストレスに感じることからは免れなかった。

今回足りないと思った点は、実績による解決策を考えるまでに短い時間で対応すること、担当を割り振る際の誰に何をすればいいのかを決められないこと、タスク分解し実行段階に落とし込むまでの時間がかかること。根本的に思考回路が時間的な制限に対応していないように思う。

どうして決定し、実行できないのか。私もそれが聞きたい。どうして決定し、実行できるのか。その確証はどこからやってくるのか。流れの見えぬままになぜ前に進められるのか。ゴールイメージが具体的でないのに、それでも突き進められるのか。

うずめく理由や原因はどうあれ、簡単な話だ。私はその状況に対応できる技量はなかった。単にそれだけだ。

たったそれだけだ。

硬直した状態から復帰へ

数日たったがまだ感情の整理はできていない。この話を思い出す度に心はかき乱されるし、何より自分自身に悔しさを感じる。

私は私なりになんとか今まで進んできたつもりだ。負け戦で臨むつもりはない。いくら失敗は先にした方がいいと言われていても、そこに付随する責任やリスク、周りへの影響を考えるとそうそうにはできない。自分自身へ赴く破壊を敢えて享受できる勇気も少ない。自分が願い、そして突き進もうとしていた道に大きな足かせ自体が自分自身だったと目の当たりにするのだって。

(2)からの硬直状態からの復帰は本人にとっては簡単に割り切れるものではない。

この世界とかの世界のへりに立って、大きなひび割れの奥底にいるようなものだ。そこには誰もおらず、どこが前で後ろなのかもわからない。そもそも天地すら理解できず、自分が本当に地に降りたっているかすら疑わしい。権力が実績が名誉が自信が感情が剥奪され、それでもなおかつ、世界は変わらずに進むかのように見える。

絶望の澱の、言葉に表すのすら難しい感情が粟立つなかに、たたずんでいる。誰かと話している時や、何かの作業をしている時にはそんなことなど忘れているのに、ふっと何か言われた瞬間に、その場所でありながら奥底に追いやられ、バカバカしいほど、情けないほどに傷つく。

誰も知らないし、誰も知り得ない。誰がどうというわけでもなく、何がどうしたいわけでもなし。

できればこんな状況など来てほしくもないものだ。せめて、誰かが同じ気持ちを味わいながら、次へ進んだかと思うことが、それだけが心の頼りだ。私がこのようによくわからぬ感情に追いやられたのと同様、今までの誰かはそれを享受しつつ成長してきたのだろう。誰にも共有せぬまま、共有できぬまま。孤独を知り、絶望を飲み込み、そして一回り大きくなる。嗚呼、胸がいっぱいだ。

いずれにせよ、立ち上がる時には自分一人で立ち上がるしかない。誰が願おうが、誰が妨げようが、誰が気にしなかろうが、誰が気にかけようが、所詮他人事だ。過去の自分も未来の自分すらも、他人事だ。

このように私がいろいろ書いたとしても、それを同じ時間でわかちあう人もいなければ、同じようにわかちあえる人もいない。未来の自分だって不可能だ。けれども、こうやって書き綴ることで、その片鱗を感じることはできるかもしれない。

落胆し、嘆き落ち込み、悲嘆にくれて、悲しみに身をやつす、恐怖に体を振るわせ外部に牙をむく。孤独に喚き散らし、絶望にうちしがれ、そして最後には慈しむがいい。どんなに否定しようと最後には残るこの塊を放棄することはできない。

孤独と絶望を飼い慣らすのは、いつだって難しい。