昨日のことだが、会社にモレスキンの手帳を忘れた。この手帳はラージサイズのスクエアタイプで、ちょうどclmemo@akaで紹介されていたDoingリストを実践している真っ最中だった。
私が手帳を忘れたのを思い出した時、それはなんとも言えない心もとなさを感じた。それは非常に奇妙な経験だ。今まで私は様々な種類の手帳と様々な方法での記述を行ってきたが、今までの中で一番群を抜いて、不安を掻き立てた。
モレスキンという堅牢さ
モレスキンの魅力を一言でいわせると、私にとってはその堅牢さである。つまり、数年間数十年間を考えた後であろうとなかろうと、その形状を保たせることができる実装である。例えば、固い表紙だったり、角の丸みだったり、いろいろ書き連ねてもきちんと閉じること、などなど。
これが自分にどんな印象を与えるのかというと、とても不思議なことではあるが、「大切」なのである。
各種あるノートと比べて、モレスキンの手帳がかようにまで大切さを醸し出すのは、私にとって不思議なことだった。たかがノート、ということではない。何も書かれていない、属性のないものですら、それを形づくることができるのが不思議というか。
しかし、モレスキンの計上は、私たちが大切にしているものとも形状がよく似ていた。
本である。
モレスキンが大切さを醸し出すのは、そのつくりゆえか、本に似ているからか、おそらくはいずれも影響していることだろう。理由はともかく、モレスキンというものは、中身にかかわる前から、あらかじめ「大切にすべきである」と私に約束させようとする力がある。
Doingリストというライン
しかし、私が手帳を忘れて心もとなさを感じたのは、モレスキンという堅い表紙に触れられない、というだけではない。そのモレスキンに書かれてきた、Doingリストにも影響がある。
2010/11/19から記入し始めて、モレスキンは、約4分の1を消費したところだ。
書き方に特徴がある今回のやり方は、一種の擬似的なタイムラインを形成している。つまり、やることを上からみっしりと書き上げることで、ある種の流れ、ラインを形成している。自分が歩んできた毎日、タイムライン、作業項目、ひとつは取り止めもないし、見たからといって再利用可能なものはさほどもない。なのに、手元に存在しないというだけで、不思議な空虚感である。ふと思いついたのは、航海日誌というのはこんな役割もあったのかもしれない、ということだ。
航海日誌のように
今回のような心もとなさは、clmemo@akaで見たやり方そのもの、モレスキンの手帳でラージ、しかも薄くなくて重いノートであったからこそ、生じたものだと私は思っている。おそらく、他の手帳ではかくもこのような気持ちになったとは思えない。実際、手帳のなかった日は、手元にあったコーネル式ノートに書いてみたのであるが、まったくもって、気分がそぞろだった。
この先、このやり方が続くことができるかどうかは、私の場合は非常に不確定だ。しかし、自分の航海日誌のように続けられればと思う。
最後に、私が実際に試してみようと思ったくだりを引用して、本文を締めたい。
ノートとしては高価だけど価値ある一冊だと思う。頑丈で、使っていてカッコイイのも好き。一冊使い終えるたびに、宝物が一つ増えた気分になる。