works4Life

飯と酒と時々GTD

過去の事実とそれに付随する感情を分離すること。

私は過去を懐かしいと感じることは割と少ない。それと合わせて反対の状況、つまりマイナスの状態であってもそれは同じだ。私はつらい過去を引きずることは割と少ない。もちろん、「割と」であって、ないことはないのだけれども。

このことを考えているうちに、過去を思い出すとそれに合わせて感情が付随することについて考えた。上記のそれらは、全くもってそのような状況だ。

嫌いな人のことを考えると嫌だった経験も思い出すにつれて、気持ちが荒ぐことはよくあることだ。それは、出来事とともに、感情すらも合わせて頭の中で想起されるからだ。感情が記憶とともに癒着している。

瞑想は、情報の想起と感情の想起から離れることを目指しているように思う。「思い出してもそれに気を取られるな」といったような作法あたりからそう思う。

ところで、書き出すことでこの事実と感情の分離が可能になる。事実+感情=実体験というものが、文字というハコを与えられると、そのハコは私自身からは分離され、事実だけがハコに遷移する、ように思う。それゆえ、事実を確認するのと、感情を思い出すのとが、別々に実行できるようになる。

頭の中に流れるもやもやは、行き先を失った電気信号だと思う。彼らは拠るべき所がなく、力の限りに自分自身を保とうと躍起になる。つまり、頭の中に流れ続けるということで。このような行動の原理は、ただ一つ、慣性の法則から見れば至極当然のことだろう。

ならば、流れ続けるもやもやを頭から取り去るにはどうしたらいいのか? 文字という新しいハコに遷移させることで、可能になる。拠るべき所を見つかり、それ自身はこれ以上自分自身を保必要がないと悟り、自らの意志で消えゆく。

それができなくば、頭全体に逆らいがたい流れをもってして、制するという方法もある。ゲームだったり遊びだったり、目的と作業がはっきりしたものにとりつくことで、つかの間の楽園が頭の中で再生される。

頭の中のことを書き出すとよい、というのは私の中では自明になりつつあるが、未だ理由は納得するような、しないような、である。ただ、情報が頭の中にブロードキャストされた状態だと考えると、まだ納得はそれなりにできる。

書き出すことは、ワーキングメモリが広がる、というたとえ話を聞くけれども、納得できるようで納得できないところがある。なぜ、書き出すこと自体がワーキングメモリから情報を消去するのを促すことができるのか、自体について、それは語らない。書き出すという作業が寄与するのか、それとも書き出す作業によって出力された成果物が寄与するのかは、まだわからない。

自分コメント

  • 流れ着くままにもやもやと。
  • 主題から随分離れてしまった。