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エブリシングエブリウェアオールアットワンス感想。さまよえる親子マイノリティクィア諸々全員へ

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「エブリシングエブリウェアオールアットワンス」を見た。よかった。

 

まとまり切らないあらすじ

 話の内容は、ざっくり言うと、アメリカンドリームを夢見て駆け落ちしてアメリカにやってきたアジア人のイブリンだが、確定申告前のコインランドリー業で離婚寸前、ボケの始まっている父親の介護に、娘のジョイはゲイでガールフレンドを連れてきていつでも頭はショート寸前だ。そんなイブリンが他の異世界からやってきた夫に頼られ?世界を救ってくれと言われる?! 果たしてイブリンは世界を救えるのか?!?!?

 という、そんなとこからスタートしてちゃんとゴールできるのかしら?というようなハチャメチャな状況設定だが、何とかなってしまって、あまつさえ感動を与える映画になっていた。

 ここからは完全ネタバレ含む感想。

 

 

 

 




どうみても渡辺直美なラスボス、ジョブ・トゥパキ

 イブリンが可能性の象徴であるなら、ラスボスとして崇められていたジョブ・トゥパキは、その可能性を潰す象徴でもあった。

 ジョブ・トゥパキは、イブリンの娘のジョイの成れの果てで、別の世界のジョイが実験の実験を重ねた結果、誰にも止められなくなって世界を潰そうと考えるように至ったのだった。

 ジョブ・トゥパキはどうみても渡辺直美をフューチャーしていた。服装だったり、口調だったり、何より目線がとても直美!である。

 日本人でどちらかといえばイブリン世代よりの自分から見ると、渡辺直美は、日本人でアメリカでの成功者、という感じ。世界では、なりたい自分を体現している者、というように見られているのだなと思った。言いたいこともその姿かたちも、服装も、恋愛の方向性も、媚びずに自分のままをさらけ出している、そういう自分をひん曲げない強さを感じた。

 そんなキャラクターなのに、ジョブ・トゥパキの目的は世界を破滅させることだ。世界をなくしたいとしている。

 

すべての平行世界をなくしたい

 ジョブ・トゥパキの成り立ちは、いろんな平行世界の自分を組み込んだ結果だ。だから全部ゼロにしたいと思うならば、もちろん平行世界のすべてが対象になる。

 で、もともとのジョブ・トゥパキに対抗できるはずのイブリンは死んじゃったので、別の世界のイブリンが対抗できるんじゃないのかと思われた。その理由がまたひどくて、全ての選択肢の中でどれも成功しなかったイブリンだからという。この世界のイブリンは成功しなかったイブリン。しかしそれゆえに、他のちょっとでも成功したイブリンとは異なるユニークさがある。そこがジョブ・トゥパキと対抗できると見込まれたのだという。

 

平行世界は選択で別れた世界、その一方でジョブ・トゥパキは選択を飲み込んだ成果物

 この映画、対比がよい。イブリンとジョブ・トゥパキも、母と娘、という対比がある。それ以外に、私は選択した、選択しなかった、という対比もあるなぁと思った。その選択は最終的には、決めた、決めなかった、という対比になっていく。

 

 平行世界は、イブリンの選択によって作られていった平行世界なんだけど、それはひとえにイブリンがこうしようと決めてきた結果でもある。

 繰り返すがジョブ・トゥパキは、ジョイがすべての平行世界のジョイを飲み込んだ結果とかそんな感じだった。結局どれも選びきれずの結果なのかな、と思った。

 しかしその結果が、「この世は全てくだらない」という結論に陥る。

 いつかは死んでなくなる。だったら、今そうなってもいいよね?

 

いつかは死んでなくなるのだから、今そうなってもいいよね、というジョイのペシミスティックな考え方

 これが、ジョブ・トゥパキの考えだった。そして、作中ではブラックベーグルにすべてを飲み込ませようという、ブラックホール的なやり方を目指していた。

 イブリンの可能性=マルチバースに生きるそれぞれのイブリンであって、まぁイブリンは、選んできた。

 一方、ジョイは、選べないのだ。だから、すべてを選んで飲み込み、ジョブ・トゥパキになってしまい、それがつらくて、マルチバース全体を巻きこんで心中しようとしている。いつかは死ぬのに何故苦しみながら生きていかなければならないの。生きる意味などない。それがジョイの絶望の発端だった。

 

 これ知ってる。昔、私もそう思っていた時期があった。

 

 私にも、無力でやるせなく、世界をそう嘆いていた時期があった。何をやっても無に返ってしまうことに考えが帰着する。その自分の思考の経路に囚われてしまう。トライしてダメだったらダメになると、抗うことを忘れて、全てのトライをショートカットして、結局無駄という考え方になってしまう。

 

 でも今ならわかる。ジョイに足りなかったのは、選んだ結果を受け入れることだ。

 

 

 映画の最後で、イヴリンがジョイのガールフレンドを祖父に紹介した時に、ジョイは逃げ出した。さらけ出すのが本当は怖いのだ。当初からそうだった。最初に祖父に紹介しようとした時も言い方を悩んでいた。それを母親のイブリンが友達だと紹介されて、憤慨した。言おうとしたのにそれを遮られたこと、またその言った内容が二人の関係性を否定すること、自分自身が言い切れなかったこと、何より勝手に決められてしまったこと。いろんな気持ちが一気にあふれていた。ジョイは、選ぶことすらままならかった。

 だからこそ、その後に続いたのが、次のような感じのセリフなんだと思う。

「ママはいいよね、勝手に決めちゃってさ」


 子どもの頃のもどかしい気持ちがジョイの中に溢れていた。何者でもあり何者でもない、シューテレンガーの猫のように。

 ジョブ・トゥパキのこの考え方には、感想のブログでもあまり触れられていない。

 

 この映画は、結構いろんな方面で受け入れられたんだけども、Z世代と言われるティーンズにも受け入れているというのが不思議だった。

 でも映画を実際見たら納得した。ジョイの母に対する反発やら、この世界はくだらないと思う考えやら、そういったものが共感したんじゃないかなと思う。特にこのくだらないことに対する答えを誰しも言ってくれるわけでもないし、たとえどんなに中のいい友人がいたとしても、打ち明けるにはむつかしいし、打ち明けたとしても共感できる代物でもない。少なくとも昔の私はそうだった。

 

 子世代の共感はわかるが、この映画、親世代にも人気があるという。親世代はどこが受けたんだろうか?

どこに進んでも幸せがあり、不幸せがある

 エブエブの中では、幾つも選択肢のその先の並行世界があるとしている。その中で別の世界のエブリンがいる。その中では、アクション女優として成功していたり、目の見えない歌手として成功していたり、有名なシェフとして成功していたり、ジョイと同じく同性愛者としてパートナー(しかも相手は現世界でバトルしている税務職員)と幸せにしていたりする。しかし話を進めていくに連れて、それぞれのエブリン達にもやはり不幸が訪れる。

 他の私になったとしても、結局は幸せだけが訪れるわけではない。と、この世界ではしれっと説明している。

 私たちは、人生の選択肢で「こうすればよかったんじゃないか、ああすればよかったんじゃないか」とか色々考えてしまう。けれども、どんな選択肢でも良くなることと悪くなることはどうしても出てくる。この映画では、それを納得させようとしている。


 私は私自身の選択したことを、納得している。頑張っているのだって、怠けているのだって、それは私が許容している選択だと思っているからだ。そこから導かれる結果についても、納得した結果の延長なので当然だと思っている。
 私がどういう経緯でこういう考えに落ち着いたか、今となっては忘れてしまった。それでも、そこに至るまでにはそこそこの葛藤も合った。
 でも、あそこでこれを選択しなければ、というのはさらにその過去の行動から修正しなければならない。そもそも、そこで修正したいと考えるのは今の私であるのだから、今の私を否定して選択を変えることは出来まい。

 そういう思考体験を、エブエブは無理やりにでも体験できるような気がしている。どんなに頑張ったところで、別の選択肢の私を体験できるなどない。よくやりがちな「あの時こう選択していれば良かったかもしれない」という幻想を打ち壊してくれる。そして、今の私でいいんだよ、とそう言ってくれるのがこの映画で、そういう部分が親世代に受けているんじゃないのかなと思う。

 

 今の私でいいんだよ、というのはイブリンに対してもそうだし、ジョイに対してもそうだろう。大人であるイブリンは、今までしてきた選択に間違いはないし、子どもであるジョイについても、どう選択しても間違いはない。いずれの道にも、幸せがあり不幸せがある。

 

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