[caption id="attachment_291" align="aligncenter" width="1280"] 20672 / Pixabay[/caption]
行動を促すのは感情に他ならない――そんな文章の入った本からちょっと取り留めなく「感情」について。
「感情」とは不思議なもので、それは特に物質でも何でもないのにどこかしら発生しうるものである。しかしながらそれがどこから生まれいづるのか、またどうして生まれいづるのかはわからず、そしてそれらの集合体として「私」と称するのもまた不可思議な現象である。
ただ、最近にそれらの「感情」が分断されてしまうことも感じることがあった。たとえば多忙だったりする時。この場合、それぞれをつなぎ合わせるかのように機能していた「感情」そしてそれをまとめて言うところの「性格」たるものが、途中から希薄になってくるのである。
その反対もある。特に集中する場合はむしろその反対で、言葉を失いながらもあるひとつの目的に対してすべてが行動している、という点に関して統合される。この感覚はたいした状況でなくても発生する。私が多分それに合ったのは、ゲームをやっている時で、いつもなら到底出さない得点を出した時にそれは起こった。その当時ライバルだった父親に、点数を見せようとしたら、言葉が出なくなってしまったという現象があった。
さて戻して「感情」である。私は「本能」を生命維持活動のために、自動的に活動しうる仕組み、というように捉えて、その対極として「感情」というものを捉えている。つまり、「本能」から見れば、「感情」といったものは、オマケであって、使いきれなくなったエネルギーの放出先の一つだと思っている。
というのも、「感情」というものがどうしても、えも言われぬエネルギーについて言い切れなくなった時の心の揺らぎのように感じてしまい、それを他人とわかりやすく共有するためにラベリングしたもの――それが「感情」だと思っている。「嬉しい」「怒っている」「悲しい」「楽しい」といった喜怒哀楽は基本的な「感情」で、さらに「感情」はそこから分化され「面映い」「懐かしい」「驚いた」「はにかむ」「麗しい」「美しい」「しなびた」「物悲しい」「苦虫を噛み潰した」といったさまざまな諸条件から発生した微々たる差分を持ち合わせたゆらぎをそれらの器として定義してきた。
このうち「嫉妬」といったものは処理しきれない「感情」のひとつであって、この感情については大概手をこまねくことが多い。この感情は、「本当は自分がそうなりたいであろうと願っていたにも関わらず、誰かが今まさに実現していて目の当たりにし、その人物に代われるものなら代わりたいぐらいである」といった場合に起こりうる。「感情」がやっかいなのは、不燃焼だったエネルギーを「感情」として消化しているのだから、それが「嫉妬」だったり消化しづらいものだったりすると、後々長引いてしまう。更に後続の「嫉妬」がやってくると、ひっついて大物になってしまい、更に消化は悪くなり、途中から慣性の法則よろしく、それを維持しようという仕組みが機能してくるからやっかいなことこの上ない。
「何かをしたい」「ほしい」といった感情ならば、そのまま実行に移せばいいだけの話なのだが、こういった消化しづらい「感情」は、自分の中で結論をかけることで消化に導く必要がある。
感情とはいずれにせよ、ある状態と、またある状態との差分である。水が高いところから低いところへ流れたら発生するエネルギーの出先がない場合、それが「感情」といったものを出しているのではないか、と思う。
とはいえ冒頭の文は、反対にエネルギーの消化としての「感情」が今度はエネルギーの発生と使われるのである。それもまた「面白い」と、ラベリングされた「感情」が発生するのを私は感じるのである。
だから、「感情」はそこそこ整理のつく代物でもあるのだが、ここでは具体例を特に出してないので、だからどーしたという文章に帰着するわけである。