まだ読み切れてないんだけど、今のざっとの感想。
あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: デイヴィッド・イーグルマン,大田直子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/09/08
- メディア: 文庫
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ちょっとまとまり切れていないんだけど、半分ほど読み進めた感想は、私は自分が自分であるという認識がかなり狭いということだった。
未来の私と約束する「ユリシーズの契約」
特に目うろこだったのがこの、「ユリシーズの契約」について。未来の私のために、今の私はお菓子を食べない、といった、未来の自分と現在の自分とが契約を結ぶ、という。
何が目うろこだったって、未来のために現在に約束を科すことが、わざわざ名称があることであることだ。名称が備わるのは、誰かが注目してなければいけないことであり、つまりそれは、特別な事象であることだからだ。
それと同時に、私は、この「ユリシーズの契約」を、全くもって信用していないということに気が付いた。今もって現在の私は、未来の自分と契約を交わすことができない。
理由はわからないが、ただ、自分が未来に対して何かを考えようとした時に、答えに窮する理由は、ここら辺にあるのじゃないかと思う。
精神も肉体も私のコントロール配下にあるのは少ない
私が私である、と言い切れるのは、私のコントロール配下にある場合にのみ限る。それ以外については、なんとも微妙な気分で、ほんとは自分の配下ではないのだが、私という肉体に入っている限りにおいては、やっぱり私である、ということになってしまう。
会社というものは、人間の肉体のそれと非常に似たイメージである。つまり、まったく別の他人が失敗をしたことについても、会社が同じでそれを引き継ぎさえすれば、自分がそれを請け負わなくてはならない。私という組織体においても、たとえ、自分のコントロール配下ではないものの、自分の肉体から発せられた場合は、その責を負う必要がある。
全能感から、個人へ落ちつくこと
子供の時は、全能感にあふれると聞く。それは、泣きさえすれば、回りのものが自分の目的を達成してくれるからだろう。しかし、大きくなるにつれて、目的も複雑になり、回りもすべてがすべて、達成してくれるわけではない。そうすることで、だんだんと全能感が薄れてきて、最終的に、自分の肉体の内外で認識が収まる。
高校時代、私はこの自分という認識が更に狭まっていたのだと思う。自分の肉体外で区別が収まればいいものが、コントロールできないというだけで、自分の肉体内においても、他人がいるのではないかという不確かさに困惑していたんだと、思う。
そしてそれらの不安というのは、自分が理解できるものでとらえられていないというだけ、という不安である。私というものは、複数の私から成り立ち、それらは意思疎通がうまくいく場合もあれば、そうでない場合も多い、という説明がありさえすれば、不安は収束するレベルのものである。
多重人格と複数の私たちの差とは
ここでふと気になることがある。多重人格という症状についてだ。
今、私という肉体の中に、私という組織名は一つで活動している。多重人格は、一つの肉体に、二つ以上の組織名が活動している場合のことを指す。複数の私がいるのは、たいして変わらないように見える。
わかっているのは、この個々の組織体とは意思疎通が断絶されていることだ。その国交が結ばれると、統一国家となっていくということもある。
そしてその一方で、多重人格にならなくとも、国交を断絶しなくても、疑似多重人格を形成している場合も多いのではないかということだ。例えば、状況によって全くルールが異なる人がある。ある状況では品行方正であるが、別の状況では全く居丈高な態度をとることもある。それこそカメレオンのように方針を行動を変えていく。
今のまとめは、自分に対する認識範囲は、人によってかなり変わるのだなということ
私は、今までというか今でもだが、あまり自分たるものに確信性をつかみきれないままに自分を認識していた。おそらく、これからも、「嗚呼!これが私なのだ!!」という認識は稀であり、今後においても覆されることはないように感じる。という認識があらたまった。
きっと、こんな話が出てきて、まったくもって理解できない人もいるだろうし、寧ろ不安に駆られる人もいるだろう。私はどちらかといえば、勇気づけられた方の人間で、やっぱり私は一つではなかったのだ!と思うのであった。
だからといって、高校生の自分にどう説明すればいいのかは、わからなかった。