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エブリシングエブリウェアオールアットワンス感想。さまよえる親子マイノリティクィア諸々全員へ

gaga.ne.jp



「エブリシングエブリウェアオールアットワンス」を見た。よかった。

 

まとまり切らないあらすじ

 話の内容は、ざっくり言うと、アメリカンドリームを夢見て駆け落ちしてアメリカにやってきたアジア人のイブリンだが、確定申告前のコインランドリー業で離婚寸前、ボケの始まっている父親の介護に、娘のジョイはゲイでガールフレンドを連れてきていつでも頭はショート寸前だ。そんなイブリンが他の異世界からやってきた夫に頼られ?世界を救ってくれと言われる?! 果たしてイブリンは世界を救えるのか?!?!?

 という、そんなとこからスタートしてちゃんとゴールできるのかしら?というようなハチャメチャな状況設定だが、何とかなってしまって、あまつさえ感動を与える映画になっていた。

 ここからは完全ネタバレ含む感想。

 

 

 

 




どうみても渡辺直美なラスボス、ジョブ・トゥパキ

 イブリンが可能性の象徴であるなら、ラスボスとして崇められていたジョブ・トゥパキは、その可能性を潰す象徴でもあった。

 ジョブ・トゥパキは、イブリンの娘のジョイの成れの果てで、別の世界のジョイが実験の実験を重ねた結果、誰にも止められなくなって世界を潰そうと考えるように至ったのだった。

 ジョブ・トゥパキはどうみても渡辺直美をフューチャーしていた。服装だったり、口調だったり、何より目線がとても直美!である。

 日本人でどちらかといえばイブリン世代よりの自分から見ると、渡辺直美は、日本人でアメリカでの成功者、という感じ。世界では、なりたい自分を体現している者、というように見られているのだなと思った。言いたいこともその姿かたちも、服装も、恋愛の方向性も、媚びずに自分のままをさらけ出している、そういう自分をひん曲げない強さを感じた。

 そんなキャラクターなのに、ジョブ・トゥパキの目的は世界を破滅させることだ。世界をなくしたいとしている。

 

すべての平行世界をなくしたい

 ジョブ・トゥパキの成り立ちは、いろんな平行世界の自分を組み込んだ結果だ。だから全部ゼロにしたいと思うならば、もちろん平行世界のすべてが対象になる。

 で、もともとのジョブ・トゥパキに対抗できるはずのイブリンは死んじゃったので、別の世界のイブリンが対抗できるんじゃないのかと思われた。その理由がまたひどくて、全ての選択肢の中でどれも成功しなかったイブリンだからという。この世界のイブリンは成功しなかったイブリン。しかしそれゆえに、他のちょっとでも成功したイブリンとは異なるユニークさがある。そこがジョブ・トゥパキと対抗できると見込まれたのだという。

 

平行世界は選択で別れた世界、その一方でジョブ・トゥパキは選択を飲み込んだ成果物

 この映画、対比がよい。イブリンとジョブ・トゥパキも、母と娘、という対比がある。それ以外に、私は選択した、選択しなかった、という対比もあるなぁと思った。その選択は最終的には、決めた、決めなかった、という対比になっていく。

 

 平行世界は、イブリンの選択によって作られていった平行世界なんだけど、それはひとえにイブリンがこうしようと決めてきた結果でもある。

 繰り返すがジョブ・トゥパキは、ジョイがすべての平行世界のジョイを飲み込んだ結果とかそんな感じだった。結局どれも選びきれずの結果なのかな、と思った。

 しかしその結果が、「この世は全てくだらない」という結論に陥る。

 いつかは死んでなくなる。だったら、今そうなってもいいよね?

 

いつかは死んでなくなるのだから、今そうなってもいいよね、というジョイのペシミスティックな考え方

 これが、ジョブ・トゥパキの考えだった。そして、作中ではブラックベーグルにすべてを飲み込ませようという、ブラックホール的なやり方を目指していた。

 イブリンの可能性=マルチバースに生きるそれぞれのイブリンであって、まぁイブリンは、選んできた。

 一方、ジョイは、選べないのだ。だから、すべてを選んで飲み込み、ジョブ・トゥパキになってしまい、それがつらくて、マルチバース全体を巻きこんで心中しようとしている。いつかは死ぬのに何故苦しみながら生きていかなければならないの。生きる意味などない。それがジョイの絶望の発端だった。

 

 これ知ってる。昔、私もそう思っていた時期があった。

 

 私にも、無力でやるせなく、世界をそう嘆いていた時期があった。何をやっても無に返ってしまうことに考えが帰着する。その自分の思考の経路に囚われてしまう。トライしてダメだったらダメになると、抗うことを忘れて、全てのトライをショートカットして、結局無駄という考え方になってしまう。

 

 でも今ならわかる。ジョイに足りなかったのは、選んだ結果を受け入れることだ。

 

 

 映画の最後で、イヴリンがジョイのガールフレンドを祖父に紹介した時に、ジョイは逃げ出した。さらけ出すのが本当は怖いのだ。当初からそうだった。最初に祖父に紹介しようとした時も言い方を悩んでいた。それを母親のイブリンが友達だと紹介されて、憤慨した。言おうとしたのにそれを遮られたこと、またその言った内容が二人の関係性を否定すること、自分自身が言い切れなかったこと、何より勝手に決められてしまったこと。いろんな気持ちが一気にあふれていた。ジョイは、選ぶことすらままならかった。

 だからこそ、その後に続いたのが、次のような感じのセリフなんだと思う。

「ママはいいよね、勝手に決めちゃってさ」


 子どもの頃のもどかしい気持ちがジョイの中に溢れていた。何者でもあり何者でもない、シューテレンガーの猫のように。

 ジョブ・トゥパキのこの考え方には、感想のブログでもあまり触れられていない。

 

 この映画は、結構いろんな方面で受け入れられたんだけども、Z世代と言われるティーンズにも受け入れているというのが不思議だった。

 でも映画を実際見たら納得した。ジョイの母に対する反発やら、この世界はくだらないと思う考えやら、そういったものが共感したんじゃないかなと思う。特にこのくだらないことに対する答えを誰しも言ってくれるわけでもないし、たとえどんなに中のいい友人がいたとしても、打ち明けるにはむつかしいし、打ち明けたとしても共感できる代物でもない。少なくとも昔の私はそうだった。

 

 子世代の共感はわかるが、この映画、親世代にも人気があるという。親世代はどこが受けたんだろうか?

どこに進んでも幸せがあり、不幸せがある

 エブエブの中では、幾つも選択肢のその先の並行世界があるとしている。その中で別の世界のエブリンがいる。その中では、アクション女優として成功していたり、目の見えない歌手として成功していたり、有名なシェフとして成功していたり、ジョイと同じく同性愛者としてパートナー(しかも相手は現世界でバトルしている税務職員)と幸せにしていたりする。しかし話を進めていくに連れて、それぞれのエブリン達にもやはり不幸が訪れる。

 他の私になったとしても、結局は幸せだけが訪れるわけではない。と、この世界ではしれっと説明している。

 私たちは、人生の選択肢で「こうすればよかったんじゃないか、ああすればよかったんじゃないか」とか色々考えてしまう。けれども、どんな選択肢でも良くなることと悪くなることはどうしても出てくる。この映画では、それを納得させようとしている。


 私は私自身の選択したことを、納得している。頑張っているのだって、怠けているのだって、それは私が許容している選択だと思っているからだ。そこから導かれる結果についても、納得した結果の延長なので当然だと思っている。
 私がどういう経緯でこういう考えに落ち着いたか、今となっては忘れてしまった。それでも、そこに至るまでにはそこそこの葛藤も合った。
 でも、あそこでこれを選択しなければ、というのはさらにその過去の行動から修正しなければならない。そもそも、そこで修正したいと考えるのは今の私であるのだから、今の私を否定して選択を変えることは出来まい。

 そういう思考体験を、エブエブは無理やりにでも体験できるような気がしている。どんなに頑張ったところで、別の選択肢の私を体験できるなどない。よくやりがちな「あの時こう選択していれば良かったかもしれない」という幻想を打ち壊してくれる。そして、今の私でいいんだよ、とそう言ってくれるのがこの映画で、そういう部分が親世代に受けているんじゃないのかなと思う。

 

 今の私でいいんだよ、というのはイブリンに対してもそうだし、ジョイに対してもそうだろう。大人であるイブリンは、今までしてきた選択に間違いはないし、子どもであるジョイについても、どう選択しても間違いはない。いずれの道にも、幸せがあり不幸せがある。

 

ほかの記事

 映画を見たら、私はほかの人が書いた記事を読み漁るのですが、よかった記事を紹介。

 

【映画】後半はもはやホラー、SISU(ネタバレあり)

 

https://i.gyazo.com/a51ac5855227274ec5ddf52474ff2c03.png

 

https://happinet-phantom.com/sisu/

 

 ジョンウィックの製作陣が作ったとあって、そういう感じの映画でした。

 

 あらすじは、第二次世界大戦最中、一人金塊を掘り当てている男が、フィンランドに向かうナチスに金塊を奪われ、取り戻すため復讐する話である。

 

 

絶妙な設定

 一番最初に思ったのは、絶妙な背景設定である。

  • 第二次世界大戦末期

 この末期。末期と言うのがミソだと思う。

 

 まず、戦中末期という時代設定。一小隊規模の部隊が、戦争から外れた場所に移動していることを実現している。

 次に、第二次世界大戦中ということで、ここに関わった国と敵対することを容易にしている。

 更に、第二次世界大戦という時代背景が、出現する武器を制限している。

 そして何より、この主人公が出現した背景が説明している。

 

 昨今武器の性能もよくなりっぱなしなので、最近を時代設定にすると、シンプルな肉弾戦を表現するには説得力が乏しくなる。

 また、この映画でのポイントとなる、ツルハシが、辛うじてなぜか使える武器として成立できるギリギリの時期でもあったのではないかと思う。

 

 そんなこんなで、絶妙な時代設定に支えられて、面子の定義ができたように思う。

 

SISUという言葉

 直訳すれば「不死身」だという意味。フィンランド語。詳しくその状況を説明すると、絶望的な状況に陥った中でも生き延びるその不屈さを示しているのだという。

 思わず家にある、説明できない言葉集を出してきた。

 SISUは載っているだろうか。当然ながら載っていなかった。こっちの本はもっとキレイでふわふわした感じの言葉をチョイスしてある。そんな場所に、こんな言葉は不釣り合いもいいところである。

 

 それにしてもこの言葉すごい。

 フィンランド、どんだけその状況があるねん。

 

 言葉というのは面白く、頻度が多ければ多い程、毎回言うのが面倒くさいから言葉が定義される。ということは、SISUもまたこのような状況が大いにあって、それで定義されたのだろう。

 バイキングで孤立無援になってウォーとか、厳冬の雪原で雪崩にあってウォーとか、腹をすかせた野生のアニマルと鉢合わせしてウォーとか、どんだけそんな厳しい目に合うんだフィンランド。

 といいつつ、あながちウォーな状況が多いのではと思った。というのも、丁度会社の部会で、地元民から見た北海道のプレゼンを聞いたからであった。

 とかく北海道は危険であると。冬は特に危険であると。氷柱は折ったら死ぬ、軒先も雪崩たら死ぬ、生水はエキノコックスとかヤバい、野生の動物も病原体でヤバい、川は境目わからん落ちたら死ぬ、熊キケン、バスが冬に運休になったらしぶしぶ歩いて帰るがそんな時は必ずといってホワイトバーン、などなど確かにウォーになりそうなシチュエーションが山ほどあった。

 フィンランドは北海道より更に緯度が高いから、もっと頻度は高いのであろう。

 

始まりの金塊

 すべての始まりだった金塊。結局、主人公は、何のために金を掘っていたのだろうか。結局その理由は明かされないまま、どこかの銀行で換金されるようだった。

 タイトルは丁度、金塊のような形をしており、最後には鋳造されてなだらかになった。続編が出るとしたら、この金塊を資金にして何をするか、だろう。

 映画自らネタバレして行く方向性なので、途中のサブタイトル(出るんです)も合わせて金色だった。

 金塊かぁ。火中の栗ではあったけれども、謎は一つとして匂わなかったよ。ホントに。

 

死なない主人公は追いかける

 さて。この話の醍醐味は主人公が結構な目に遭うのだけれども死なずに生き延びて、復讐を遂げる点だ。

 馬と地雷にあっても、川に逃げて水没しても、首を吊られても(ここは無理ある)、飛行機にツルハシ一本で掴まっても(これも無理あったな)、とにかくまあ死なない。あまりに死ななくて、どこまでも追いかけてくる様はもはやホラーに近い。

 主人公も痛そうで爽快感はない。むしろハラハラしっぱなしである。自分で銃創抉ったり、鉄格子を切って傷当てにしたり、むしろ気分はそれを見ていた敵役と同調する勢いである。

 

 というわけでバイオレンスアクションを見たはずなのだが気分はどちらかというとホラーな気分になった映画でした。というか、隣の人がまた自分と同じように驚くので、ますますホラー感が強いのだよな。

 オープン開始の映像は素晴らしく綺麗でした。

 

 

【GTD・タスク管理】それぞれの仕事配分に適した、最短距離を行くタスク管理術5選とは?

 

www.lifehacker.jp

 

 この手のタイプの記事を見る度に、どの仕事術を適しているかは、仕事の配分によって変わるんだよな、と思いながらみていたので、今日はそれをまとめようと思う。

 

仕事の配分

 人によって仕事といっても、仕事の種類とその配分率は異なる。仕事ののタスクは、ざっくりとこの3種類になる。

  • 作業タスク
  • 割り込みタスク
  • ミーティング

 作業タスクは通常のタスクだ。書類を書いたり手続きしたり。

 割り込みタスクは、外部の人から入ってきた仕事。人から声をかけられるのも応対するのがタスクなため、割り込みタスクとしてカウントする。

 ミーティングはその通り時間が決まったタスクである。

 

仕事の配分量は職種によって異なる 

 世の中の仕事術というのは、仕事の配分はかなり変わるのに一緒くたになって語ろうとする。そうすると、自分の仕事配分とは合ってないのに取り入れようとしたりして、それでなんだかおかしなことになる。そのためにも、自分の今の仕事配分は、ちゃんと把握しておいた方がいい。

 GTDの勉強会なんかやってきて、いろいろ聞いてきた結果、仕事の配分パターンは、ざっくりしたイメージだと下記の4パターンになる

  1. メンバー型仕事配分
  2. 研究職型仕事配分
  3. 管理職型仕事配分
  4. デスマーチ型仕事配分

 下に進むにつれて、全体のタスク量が多くなっていくとかんがえてよい。

 

1.メンバー型仕事配分:穏やかな川の流れタスクタイプ

 

 ミーティングもそこそこ、割り込みタスクもゆるりと入る、自分のタスクをこなすのがメインで正直、一番自分でタスクをコントロールできる優雅で理想的な仕事配分である。

 新人やプロジェクトのメンバーなどに、この仕事配分が多い。

 だが、余裕があるといって、いつの間にか締め切りに追われてしまうことはままある。

 なお、円のサイズは全体の仕事量を表す。

 

2.研究職型仕事配分:ロングターム仕事で夏休みの宿題タイプ

 研究など、自分でプロジェクトゴールを切り開いていかないといけない、仕事配分。メンバー型仕事配分と似ているが、円のサイズ=仕事量が多い、また作業タスクもよりゴールが長期的だ。

 メンバー型仕事配分なら多少遅延しても取返しがまだ可能だが、この手の場合は、時間がかかるため取返しが非常に難しく、コントロールが難しい。

 

3.管理職型仕事配分:ミーティング割り込みタスク入り乱れタイプ

 

 GTDが一番役に立つ仕事配分。ミーティング、タスク、割り込み等まんべんなくふってくるタイプの仕事量だ。そして全体量が多い。

 複数仕事をかけもちしていたり、関わるメンバーの数が多かったり、管理職で仕事を割り振っていたりする人が、この手の仕事配分になる。

 メンバー型仕事配分から、なんだか知らないうちに、この仕事配分になっていることが多い。 

 

4.デスマーチ仕事アセット:ミーティング割り込み入り乱れに乱れてわけがわからないタイプ

 GTDがあってももはや無理なぐらい、タスクに忙しさがかぶっている仕事量である。

 ほんとはもうここら辺になると、外部と調整して自分のタスクを外出しした方がいいレベル。体が壊れる前にヘルプを出そう。

 人によってはミーティング量は少ないかもしれないが、共通するのは、作業タスクに割けられる時間が圧倒的に少なく、割り込みタスクでいつの間にか時間が消費されるのがこのタイプである。

 

 

 で、ようやく最初の仕事術だが、仕事配分に適したタスクのやり方は異なる。適した仕事配分と合わせて紹介しよう。

 

タスク管理術1.「目標と優先順位」からはじめる

 研究職型仕事配分、メンバー型仕事配分に適している。

 

 時間があると、難しい仕事は、まだ時間があるからといって、後回しにしがちだ。それを明確にしてくれるのでよいと思う。

 そして優先順位が高いものは、朝のいの一番に手をつけるのがよいと思う。

 ちなみに、管理職型仕事配分、デスマーチ型仕事配分は、つけている暇などない。スケジュールが一番短いやつもしくは全体作業がわからんやつから手をつけるのがよい。

 

2. 大きなタスクは「親子で管理」

 全タイプの仕事配分に適している、というか、仕事をする上で必要なタスクの概念である。

 

 仕事とは一つで終わるわけではなく、複数のステップを通じて完了できることの方が多い。ゆえに、面倒。ゆえに時間がかかるのである。

 仕事が多くなってくると、この親子管理が難しくなってくる。

 研究職型仕事配分、メンバー型仕事配分にとっては、やった感を感じるために履歴を残す意味でもとても重要。管理職型は、時間が空いた記憶を思い出すのに重要。デスマーチ型は私の経験上、履歴をとれる余裕があまりない。

 

3. 「タスクバッチング」で切り替えを減らす

 デスマーチ型仕事配分、管理職型仕事配分に適している。

 

 いわゆる数が多いと似た仕事をしろという内容である。メールを出すならメールタスクをこなし、電話をするなら電話タスクばかりをこなそう、という。

 苦手なタスクはこのタスクバッチングで一気にするとやりやすい。

 

4. 「2分ルール」でタスク消化

 全仕事配分に適している。というか、GTDの2分ルールである。

 

 2分で終わるような小さなタスクはとっとと消化せよという理由は、後回しで実施するタイミングだと、思い出すコストが作業する時間に割に合わないという点である。

 しかも、後回しにした当時は、「すぐにできるから後からでもいいや」と思っていることが多い。だのに、いざやろうと思うと、何をすればいいのか忘れたりして、思った以上にタスクをこなすのに時間と心理的抵抗感がかかってしまうことがある。で、実際タスクをこなして、「こんな簡単なことなのになんで私は放っておいたんだろう」とかなんとか思ってたりすることがあるのだ。

 だからまぁ、2分で終わりそうならとっとと完了した方がいい。特に思い出すのが苦手な人はやった方がいい!

 

5. タスクごとに「タイマー」で管理

 研究職型仕事配分、メンバー型仕事配分、管理職型仕事配分に適している。

 

 私は割と時間がある時は、ポモドーロの25分を1タームとして管理している。これの何がいいかというと、仕事量を定量化することができるからだ。特に研究職とか長いタームの仕事の場合、進んだ感がなくて疲弊する。こんな時、ポモドーロで25分を1タームとしておくと、今日は何タームやったなど、進んだ感が出てきてよい。

 また、好きな仕事なら集中してするのが好き!という場合にも役に立つ。好きな仕事ばかりして疲弊し、他の仕事に手をつけるのをすっかり忘れてしまう予防効果がある。つまり、今日は3タームで終わろうとか、体力が続く限りし続けていた仕事を理性的に(?)終わらせることができる。

 

 

まとめ:まずは自分の仕事配分型を把握することから

 各タスク管理術自体はそれぞれよい部分があるのだけれども、各々の仕事配分タイプによっては、全く合わないこともある。

 なので、ひとまず自分がどういう仕事配分型なのかを把握することから始めるとよいかもしれない、という記事でした。

 

【映画】君たちはどう生きるか感想追加。生命の祝福(ネタバレあり)

 この前見てきた「君たちはどう生きるか」についての余談。

 

 細かいディテールはおいといて、今回はこの話のレイヤー構造と、神話というか普遍性に向けた話、それから歌舞伎の綯交ぜが取り入れられている点について話したい。

最初の疑問は白濁の液

 なぜこんな話を考えるようになったきっかけは、作中にあった白濁の液だった。一つはアオサギが主人公の家の窓の残りにつけていたことと、それから最後現代に戻ってきた主人公、ナツコ、父の3人に白濁がついていたことだった。

 アオサギの時点ではなんだか気味が悪いなぁというだけだったが、最後の人物達にわざわざわかりやすくつけていた。インコがいるからインコのフンのように見えざるを得ない。だが、見せ方があからさまであるから、大きな印であることは確かだろうと思った。

 

イザナギとイザナミの神話

 大きな印といえば、イザナギとイザナミを神話を思い出したのもわかりやすく印があった。「後ろを向いてはいけないよ」という点だ。

 このフリは、異世界と現代からの切り離すためによく使われるおまじないでもある。だが、「死んだ女を連れ戻す」という話の作りから、イザナギとイザナミの神話を組み込んでいるであろうというのは推察できる。

 今回、「死んだ女」は主人公の母親だが、火事でなくなっている。イザナミもまた、ヒノカグツチを産み落とした時に亡くなったという点でも類似性がある。

 

 だが、ここには白い液体の話は出てこない。

 ならば別の神話なのだろうか。

 

白い液体で有名なのは、エジプト神話

 白い液体で有名なのはエジプト神話である。私はエジプト神話が好きなので、割かし神話の本を図書館で借りては読んでいた。

 そこで出てきたのがレタスである。レタスは、その切った部分から白い液体が出てきて、これが、精力増進効果があると信じられていたとも言われる。で、このレタスはエジプト神話のミン神の供物として有名だ。ちなみに、ミンは豊穣の神で、見ればわかるが、その姿から子孫繁栄を象徴するともされていた。白い液体が何を連想するかは、自明である。

 

 しかし、日本神話はわかるが、いきなりエジプト神話が組み込んでくることは奇妙である。奇妙であるとは言ってても、ところがアオサギはエジプト神話になじみがある。

 

 ベンヌは、エジプト神話に伝わる不死の霊鳥だ。そして、そのモチーフとなったというのがアオサギである。実際その姿には二枚の青い羽根がある。

 どうやら、確かに、日本神話以外に、この映画はエジプト神話の要素もあることに確信はもてた。

 もてたが、なぜエジプト神話なのだろうか?という謎があった。そして、なぜ神話を二つも持ってくる必要性があるのかがわからなかった。

 

神話の要素を入れるのは、普遍性のため

 今回、イザナギとイザナミの話を思い出したので、最初、とても神話っぽく思った。

 だが、どちらかといえば、話を普遍性に持たせるために、神話という型を取り込んだのではないのかと思った。

 

 神話の類型であれば、それになぞるように覚えやすい。また、神話の類似とすれば、話の訳の分からなさも多少の合理性は不要になってくるし、むしろ不合理さが必要となる。

 

 この不合理さの企みはおそらく成功しているように思われる。この物語は、すんなり理解されることを拒み、いろんな人の中で、よく考察され、記憶の中でながらく滞留しているからだ。

 あそこはどうなんだ? あれはどういう意味? などなど検討せざるを得ないような状況になって、結果印象に残る。

 

 物語に普遍性をほしかったのは、物語が長く存命されること、いろんな観点から読み取られてほしいこと、という2点が実現できるからかなと思っている。いろんな観点から読み取られたいというのは、前回の感想の通りである。

 

 

 ふーん、だからイザナギとイザナミの神話の類型を作ったのか――だが、エジプト神話を取り入れる理由はこれだけでは足りないのである。

 そこでふと思い出したのが、歌舞伎狂言の「綯交ぜ」である。

 

歌舞伎狂言の「綯交ぜ」を取り入れた世界

 「綯交ぜ」とは歌舞伎の作劇法のことで、二つ以上の異なる〈世界〉の筋をからみ合わせて一つの狂言を作ることだ。「綯交ぜ」についてはこちらのリンクの説明がわかりやすい。

 

 歌舞伎・鶴屋南北|文化デジタルライブラリー

 

 ポイントは、「筋をからみ合わせる」ことである。今回の物語は、通常の主人公の話を進みながらも、イザナギとイザナミの神話のような話の筋を取り込んだ形をしている。これが「綯交ぜ」である。

 別に、イザナギとイザナミの神話を知らなくても、当初の物語は完結しているので、別に問題はない。ただ、見る側が神話を知っているか知っていないかで、別の側面が見えてくるという面白さがある。

 

 今回、この物語に「イザナギとイザナミの神話」を綯交ぜしたと言えば説明がしやすい。そうすると、ここに「エジプト神話」の世界を「綯交ぜ」したと考えれば、とてもわかりやすくなる。

 

物語のレイヤー構成

 さて。この物語がとてもよく語られるのには、いろんな側面から読み取れることができるからだ。側面をレイヤーとして考えると、今回の物語には、以下のようなレイヤーが考えられる。

 

レイヤー1、主人公の物語

 これは、本来一番表面にある物語である。どうしてアオサギなの、結局空からふってきたアレは何なの? 謎はあまりに多い。

 

レイヤー2、宮崎駿の物語

 レイヤー1から照らし合わせた、宮崎駿の物語である。主人公は宮崎駿で、アオサギは誰それさん、と見る側が勝手に妄想を膨らませてくれる。

 

レイヤー3、見る側の物語

 レイヤー1の主人公に照らし合わせて、自分と共感を得る。そのため、主人公やその周りにはいろんなひっかかりがちりばめられている。そして、占いのように、自分が一番注目したい部分が注目されて、自分自身の物語のように受け止められる。

 

この物語の感想は、おおよそこの3つのうちどれかについて語られているようだ。前回の私の感想は、レイヤー3が多用できるように作られているのねこの話は、という感想であった。

 

で、今回この記事で紹介したいレイヤーは以下の二つだ。

 

レイヤー4、日本神話と、レイヤー5、エジプト神話の物語

 今回、この物語ではなぜイザナギとイザナミの神話だけでは足りず、エジプト神話の組み込みを必要としたのか。

 それにはまず、イザナギとイザナミの神話の内容について振り返らなければならない。

 

イザナギとイザナミの神話は、死の物語

 イザナギとイザナミの神話は、イザナミが亡くなって、イザナギがイザナミを連れ戻そうとしたが逃げた話である。

 

 今回の物語では、イザナミは主人公の母親で、イザナギの役回りをしているのが主人公となる。結論から言えば、イザナギの役回りだった主人公はイザナミを連れて帰らないと決めている。

 イザナギである主人公は、イザナミに追いかけられもせず、あまつさえ、ナツコを連れて戻っている。

 イザナギとイザナミの神話は、若干話がスライドされ、別の話へと書替えされている。

 

エジプト神話は、生の世界

 残念ながら、エジプト神話に似合った物語は私は覚えていなかった。ただ、いろいろなパーツから思い出すエジプト神は、生殖・豊穣の神ミン神、そしてイメージは一つしかなかった。

 それは、「生」である。

 

 数あるエジプト神の中でもミン神でなくてはいけなかったのかはあとで話すとして、ミン神を思い出せるもののモチーフは、物語でも随所に現れていた。

 

 ミン神が、この物語に関わっていないけど関わっているというのは、ミン神に関係するパーツがいくつか出てきた。「鞭」「包帯」「白い液」あたりである。

 「鞭」は異世界で、キリコが武器として持っていた。ミン神も鞭を手に掲げている。

 「包帯」は、産屋で出てきた。産屋でナツコと主人公は、白い紙というか途中から包帯のようなものに覆われていた。あれは、今思えばミン神のパーツの一つなのかもしれない。ミン神の足元はミイラの白い布で覆われている。

 「白い液」。ちょうど主人公たちが現代に戻ってきた時、大量のインコにあふれかえっていた。あそこのタイミングで見る限りには、インコのフンではあるが、実際表したいのは別のものである。これがなんでミン神と関係するのかっていうと、ミン神の供物はレタスで、レタスがなんで供物かというと、レタスを切ると白い液が出てきて、それが滋養強壮によいと思われていたからだ。ちなみにミン神は生殖の神である。何を表しているかは自明だろう。

 

 それからベンヌ。アオサギがモチーフとされるこの鳥は、不死の霊鳥とされているし、またフェニックスのモデルともされている。あの不思議な世界から戻ってくる相棒としては全く適した役どころである。

 イザナギとイザナミの神話では、不思議な世界からの戻り道は黄泉からの戻り道である。その一方で、ナツコを産屋から連れだったという点で、生まれいずる道、つまり産道にもなっている。死から生を生み出し廻る道――これ以上の不死鳥にふさわしい道はないだろう。

 

異世界からの戻り道とは、黄泉からの戻り道でもあり、産道でもある

 ここが、私が気づいてとても興奮したところだ。

 異世界からの戻り道だが、イザナギとイザナミの神話ならば黄泉からの戻り道の話になるが、今回はナツコを連れ立った話になり、それは一転して、エジプト神話の世界の話となって、その場合、この道は産道になる。

 それは、ナツコが異世界にいた場所が産屋なんだから産道しかない。

 

 ここでようやく、エジプト神話の印を持ってきた意味がわかる。エジプト神話は、死としてのイザナギとイザナミの神話の対比として生のモチーフ、生殖のイメージとして描かれている。

 

 この表現こそが、全く異なるイメージを融合させ、同じ時間軸で実現しており、まさに歌舞伎が取り入れていた「綯交ぜ」が実現された状態なんじゃないかと、私は思っている。

 そしてそれは、「生命は廻る」というに相応しい表現である。

 

 インコは何なのと言えば、産道から出た後のインコはあの色鮮やかさは生まれてきたことの祝福を表しているのだと、私はそう思った。

 

しかし実際意図されたものかはわからない

 とはいえ、日本神話はともかくエジプトのミン神は特定するには少ないパーツなので、まぁ実際は違う可能性も高い。けれども、こういう風に考えると、二つの神話を取り入れることで、死と生を一緒くたに表現している、ということが説明できるし、アオサギがこの物語を一貫して出しゃばる必然性も理解できる。

 

 

 

 いずれにせよ、私がこの映画を見て思ったのは、監督が生命の廻りというものを祝福していることだ。

 そう、祝福なのである。

 

 

 

 

 とりあえず、この映画の私の解釈は、これで落ち着いたかなと思う。

 

 

【映画】君たちはどう生きるか感想(ネタバレあり)

 観てきた。

 以下ネタバレなのでまだの人はご注意を。

 

 

 

 ここまでくるともう神話のようだと思った。細かいエピソードはぶっ飛ばして、最初は戦争ものなのかと身構えていたけど、そうでもなかった。ただ、思った以上にファンタジーな話でびっくりしたし、思った以上にアオサギがでしゃばるのも予想外だった。

 

 神話のようだと思ったのは、エピソードがあまりに抽象的すぎるし、何より後ろを向いてはいけない、というのが、神話っぽい話ですよ、という前ふりなのかもしれない。

 抽象的だとは言え、確かに戦中で、主人公はどこかのいいとこのぼっちゃんで、母親は病院で亡くして、母親の妹が義母になることになって、父は工場長で、というのはあの言葉少ない画面だけでよく読み取れるものであった。

 でもそこにある関係性は、注視してこないと見ないものだし、あるいは、自分がそう見えようと妄想を掻き立てる大きな余白しかなかった。

 

 主人公は思ったより性格が悪かった。引っ越し先の小学校の生徒と喧嘩をして、その後自分で傷を作った。が、その傷をだれかにやられたと言い切れる程でもなかった。宮崎駿の主人公は、どちらかといえば清廉潔白なキャラクターが多かったから、なぜこんなことをしたのか不思議ではあった。でも、学校に行きたくないのか、敢えて悪いことをするようなのが、この映画の主人公である。これは、すごく見る私たちにとっては、近しい人間に見えるようになった。

 

 あのうさん臭い青サギに誘われて、義母の夏子が神隠しに逢い、その夏子を助けに不思議な世界にやってきた主人公。

 

 不思議な世界は、とりあえず私はあの世とこの世の境目のような場所という認識だ。白い木霊は浄化されてこれから現世に生まれていく命。そして黒い者たちは、亡くなってしまった者たちだろうか。この世界の中で飯を食べて浄化されて、木霊になっていくのかどうかはわからんが、まぁ生者の手前と死者が同居している世界、というのは理解できた。

 

 しかし、そこにペリカンが住んでしまい木霊を食べてしまったり、インコが住んでしまい、インコがのさばったりしてこの不思議な世界も割と大変な感じになりつつある。

 

 さてこの不思議な世界は、主人公の大叔父様がどうやら、異界からやってきた物体にあった石と契約して作った世界のようだった。主人公はなんやかんやと、あのうさん臭い青さぎとも途中から仲良くなり、母親も見つかり、義母の夏子も見つけ、最終的には大叔父様と出会うようになる。そしてこういわれるのだ。「この世界の主になってくれんかね?」と。

 

 大叔父様は爺になっていつ亡くなってもおかしくない状態だ。そして彼の仕事はこの世界を素晴らしい世界に構築していくことであり、その作業は白い積み木を1日に3個組み立てるというものだった。しかし、この積み木、ちょっと息をふいたりしてようやく1日永らえるという、誠不毛な仕事でもある。

 

 主人公の考えられる選択肢はこんなものがあった。

 

 一つ目は、この不思議な世界の主となり、母親を助ける。

 二つ目は、義母の夏子をつれて、現世に戻る。

 

 結局母親に説得され、主人公は二つ目の選択をし、夏子とともに現世に戻った。

 めでたしめでたし。

 

 

 ここには、私たちがこの世界でよく起こるであろう出来事が出てきた。そしてそれらに自分なら、どういう選択をしてそして生きていくのか、そういう物語だったように思う。

 

 身内と別れてしまい、そこに後悔を残す。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 新たな身内ができてしまい、それに戸惑う。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 新しい世界を強いられそこになじめない。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 親のふるまいに、自分にしてもらっているとはいえ、嫌気が差す。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 うさんくさい話とはいいつつ手を出してしまう、不思議な大叔父の世界。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 うさんくさい野郎が割とそうでもなく、いいところもあったと知る、アオサギ。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 用意された選択肢が、必ずしも最適解ではないという、悪意のある積み木。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 死者を助けるありえない選択肢を、結局はしないと確定させるという、事実。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 親しいものから嫌悪を示されるという、裏切り。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 嫌悪されてもなお手を指し伸ばすという、努力。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 自分の意地悪さを認めるという、反省。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 すべてを捨て、用意される新しい世界という選択肢。

 君たちはどう選び

 君たちはどう生きるか。

 

 

 神話では、炎で亡くしたイザナミを黄泉の国から連れ出そうとしたイザナギは、結局逃げてしまい、イザナミと決裂するという結果を生んだ。

 

 この映画の主人公は、新たな母親を連れて、現世へと戻った。大叔父様には友達をつくると、宣言していた。

 不思議な世界はもうない。現世だけが残された。

 

 

 何かしら憂いや心配、苦悩があったとき、私たちはこの映画をふと思い出しては、また見るのかもしれない。一つの選択肢の解として、この映画はとてもなじむから。

 

【雑記】6月になってしまった(衝撃)

 久々のブログである。

 

 1月から書こうと思っていたのに、忙しさにかまけているうちに、もう6月になってしまった。衝撃である。

 仕事が忙しかったり、友人の仕事を手伝っていたりしているうちに1年がポーンと過ぎ去ってしまった。ブログ自体はもっと前からちみちみしていたのだが。。

 

 ブログを書いてないとはいえ、下書きはしていたものの、なんとなく投稿する気にならんなぁと思っているうちに下書きが増えていったのである。GTDについてもなんも書いてないし、と思って、気持ちを改めてnoteに書き始めたがまた忙しくなってきて、うまく回っておらぬ。なぜだろう。。

 

 人には取り扱える量というものがある。その量が、私はあまりないと実感というか通関したのが、大昔プロマネになった時だった。惨敗もいいところで、私はすぐに無理ですと上司にタオルを投げた。 ……というのを、ブログで書いた覚えがあるのだが、引っ張りだせてこない。

 ボリューム多すぎるのは無理やねん、というのに、今仕事で取り扱っている項目数が半端なく多い!(現在進行形)100はまぁがんばろ(るん)、300ぐらいになったらちょっとやり方考えようか。。みたいなボリュームで、若干分量の考え方にバグが生じているぐらいである。

 

 しかも、友人の仕事を手伝っていたとあるが、こちらも残念ながら数が多かった。さすがに、会社の仕事と比べるとボリュームは同じではないが、友人の仕事の類の中では、とりあえず大規模案件に取り扱っていい規模であった。

 

 今後はほそぼそともブログを書いていきたい所存である。

状況別防寒対策3選、その対策【寒温移動の眠気問題】【窓際寒すぎ問題】【寝ても肩が寒すぎ問題】

今週のお題「防寒」

 

 防寒か。語ることはある。

 防寒といってもいろいろあって、状況別でどうにかこうにかしたいというのが結構異なったりするんだよな。

 そこで、ここ最近で解決している状況3選の課題及びその対策を紹介する。

 

 

  • 寒いところからあったかいところに移動したら眠気が飛んでもなくする問題→イヤーマフラー
  • ベッドから窓が近くて外気が寒くてひどすぎ問題→冷気ストップライナー
  • 寝て起きたら肩が寒いでござる問題→フード付きブランケット
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